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村田喜代子さんの『姉の島』を読んで考えた話

先日読んだ、村田喜代子さんの『姉の島』について、いろいろ考えたことを書きます。

村田喜代子さんの小説にはよく老婆が登場しますが、この作品も85歳の老海女が主人公です。
九州の離島で長年海女をしてきた雁来ミツルは、相棒の老海女・小夜子とともに、85歳のいわゆる海女としての定年を迎え、倍歴170歳の祝賀を受けます。


田舎の老婆の肯定的な力強さ

この作品を読んでいてまず感じるのは、離島の老婆の強い生命力です。
ミツルたち老海女は、老いることに対しての否定的な感覚が全くなく、田舎の離島に住んでいることのマイナス感情も一切ありません。
さらに言えば、女であることの劣等感みたいなものも、一切なし。世代的に、女性であるというだけで軽んじられてきたはずなのに。

個人的な話で恐縮ですが、私個人は田舎で女として育つことにものすごい劣等感を持っていました。
方言しか話せないことも、一面に広がる田んぼしか知らない環境も、店に並ぶ服が東京からワンテンポ遅れてることも。昭和の時代はネット通販なんてなかったし。
東京に比べて田舎は何をやってもダサいし、さらに女はその状況でどんなに格好つけても滑稽に見える。当時10代の私はそう卑下して、田舎に生きることを全否定していました。

そして今、中高年になって。
紆余曲折の末に東京に住んでいますので、田舎には田舎の面白味があることもわかりますし、昨今のジェンダーフリー論争から、女には女の闘い方があることもわかります。
ただ、老いて死ぬことに対する恐怖だけは、どうあがいても、慢性病のように取りつかれてしまうので、励まされるわけですよ、村田作品の老女たちに。

彼女たちの自己肯定感の高さの源は、一体何なんだろう。
そう思いながら読み進めているうちに気づいたのが、海女という仕事を85歳まで続けてきた、そのプロ意識なのかなと。

海女たちは、素潜りでアワビを取りに行きます。
若い海女は浅瀬で、ベテラン海女は20メートルくらいまで潜ります。
当然、その仕事は男にはできません。
70代くらいで漁師を引退した男たちより、素潜りで鍛えられた女たちの方が、元気で長生きだったりします。

そりゃ、老婆が強くなるわけですな。
ミツルの相棒海女の小夜子は、病床の夫を経済的にも支えるために、85まで潜るんですもん。
自立したプロは強い、というやつですね。

同時に、島の女たちは、自分たちでできることは業者任せにしないで、経済的にやりくりします。
例えば、お茶請けのスイーツを買ってきたりしないで、自分たちで羊羹を作ってしまうとかですね。

都会の資本主義経済社会では、いろんなものがお金で手に入りますが、それらを買うために、あくせく働かなきゃいけません。
でも、自分でできることは極力自分でして、お金を使うことを極力減らしていけば、資本主義経済に振り回されることもない。

そういう自立した生活は、貨幣の多寡でメンタル抉られることもなく、我々が見失った力強さがそこにあるのかもしれないな、と思いました。

倍歴の持つ意味

この作品にちょいちょい出てくるのが、倍歴です。
85歳を過ぎた海女は、年齢を倍換算されて祝われるというもの。
170歳なんて神さまの域だ……と作中でも言われてますが、だから神武天皇など古代の天皇の年齢も100歳超えてるのは倍歴だろうと、そういう話で老婆たちが盛り上がります。みんな歴女かな。詳しいんですよ、彼女ら。

そんな倍歴の婆たちに対し、ミツルの孫の妻である美歌は「倍歴は重し」だと言い、反対に当人たちは「軽い」と言う。
でも、この場合の重い軽いって、どちらも死を暗示してますよね。
美歌の重しは、墓石の重さ。
婆たちの軽いは、魂の軽さ。

それで、神武天皇などの古代の天皇の記録って、古事記にしても日本書紀にしても、後の時代(8世紀)に作られたものじゃないですか。
権威付けのために倍歴にしたとしても、当の本人たちはずっと以前に亡くなっているわけで、文字を持たない当時の人々には「それらしい人がいたらしい」というくらいしかわからなくて。
作中では神功皇后が島に倍歴を伝えたとありますが、そんな時代からずっと伝承され続けているのだとすれば、長い間に倍歴が死者を示す暗号みたいになっていたとしても、おかしくないよなあ……と。

つまり「この作品で年を取っても力強く生きる勇気をもらった」などと思っていたら、ミツルたち老婆は冒頭で「終わった人」扱いされてた?
倍歴祝いというのは、昔で言うところの「姥捨て山」のような、そういうもの?
いやいや、もっと年上の倍歴海女もいるし。

死の宣告を受けてると理解しながら、それでも海女としての仕事を続けたり、後に残る者たちのために独自の海図をつくったりしているのであれば。
その悟りの境地にかける言葉はありません。
そりゃもちろん、彼女たちも残りの時間が短いことは承知の上でしょうけど、他人から「あなたたちはもう死者も同じ」と引導を渡されるって……。

そして、倍歴を言い渡されるのって女性だけなんですよ。男はなし。
まあ男は85まで生きられる人が少ない、漁師の死亡率の方が海女より高いと言われれば、そうかな、なんですが。

あの戦争の弔い

倍歴海女たちは年齢的に戦争体験者です。
彼女らの兄たちが、徴兵されるなどして海に沈んでいます。
この作品では、終戦後に米軍によって沈められた旧日本軍の潜水艦が、弔いの対象として登場します。

戦後に無人の状態で沈められた艦だから、弔う相手はいないとわかっていても、線香をあげたくなる海女たち。
弔うことしかできないというのが、戦後日本人のジレンマなんですかね。

作中でも少し触れられていますが、戦後の当時は、戦争について語ることがタブーだった。民主国家になったはずなのに、戦争を語れなかった。
戦争を語ることが、日本政府にも当時の日本人にも都合が悪かったんですね。じゃなければタブーにはならない。
弔いは口を閉ざしたままでもできる。だから、弔おうとする。それしかあの戦争に対する決着のつけ方を知らないから。

海女たちの語る戦争は、どこまでも庶民目線の被害者話です。それは仕方ない。当時はまだ幼く、田舎の庶民で、女の子で、兄たちを戦争に取られたのも事実。その兄たちを、愚かな作戦で死なせたのも、また事実。
戦後も迂闊にしゃべれば、大人たちから怒られただろうし、そも思い出したくもなかったろうし。

戦争を知らない世代の人間が、経験者たちのあれこれに口を出すことはできません。
が、そのタブー視が、戦後の日本をややこしくしてきたのだと今はわかるので、何とももどかしい限りです。

どんなに力強く生きてきたといっても、老婆は無力。
彼女らにできるのは、沈んだ潜水艦の場所を後世に伝え、あの戦争そのものを弔うことだけ。
それからどうするかは、倍歴海女より時間の残されている我々に残された宿題ですね。

おわりに

倍歴海女たちは強い分、口も悪いので、多分、身近にいたらめっちゃ怖いおばあちゃんかもしれせん。
ぐいぐいいっちゃう美歌ちゃんって、孫の嫁という立場なのにすごい! と、そちらも尊敬してしまいます。息子の嫁の勤子さんも、引いてなくてすごい。
ミツルさんも、美歌ちゃんや勤子さんのやることを否定しないんですよね。

ベテランから見たら、新人・中堅のやることなんて、危なっかしくて仕方がないだろうに、自分のやり方を押し付けたりしない。
頭でわかっていてもなかなか実践が難しいこの真理を、『姉の島』は改めて教えてくれたのでした。

面白かったです。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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