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大昔の東洋思想を、あらためて振り返る意味について考える

先日テレビを見ていたら、トランプ支持者による襲撃で負傷した警察官を、子どもが案じて手紙を書いた、その優しさを称えよう……というようなコーナーがありました。(長いですね)
番組の中で「小さな子どもにも道徳心がある」というような表現をされていて、おやっと思ったんです。
道徳って、儒教的な考え方ですよね?
一般的アメリカ白人であれば、キリスト教徒である確率が高いから、ここは「倫理観」と訳すべきでは? と。
我々の中に、いかに儒教が巣くっているのかを、考えさせられる出来事でした。

というのも、縁あって、月初に酒見賢一氏の『墨攻』を再読してまして。
『墨攻』は、古代中国の戦国時代において、非攻・兼愛を唱える墨子教団とはどのようなものだったのか、そのあたりを描いた小説です。
漫画にもなりましたし、映画化もされましたし、何より中島敦賞受賞作ですから!(漫画も映画も見ていないなんて、恥ずかしくて言えない、言ってるけど)
小さな城を邑人とともに、墨者の革離が守るストーリー、これが痛快で。
ときどき読み返したくなる作品です。

そうして読んでしまうと、墨子についても読みたくなるのが人の常。
それで、墨子の本のライトなモノを、図書館で借りて読んでみました。

『墨攻』でわかったつもりになっていたけれど、墨子の思想ってある意味極端ですね。
汝を愛すように他者を愛せという兼愛。
他国を攻めることは愚かという非攻。
他者の能力を、身分や家柄や容姿ではなく、正当に評価せよという尚賢。
あくまでも庶民の立場に立ち、庶民のための政治をせよと、権力者に進言するその姿は、とても頼もしいものがあります。
そういう部分は、真似をしたいです。

ただ反面、滅私奉公、再分配主義、農作業や機織りなどを怠けた者は自業自得……的な部分には、ちょっとついていけないかなあ。
紀元前の時代の人ですから、そりゃ、庶民が農作業をしなければ、食べるものがなくなるのは当たり前というか、サービス業の存在しない時代なら仕方ないかもしれませんけどね。
でも、さぼるな、怠けるな、余剰は他者に分けよ、己が不幸は行いの悪さだ……と言われたら、現代人の怠け者は悲鳴をあげるしかないじゃないですか。

墨子は儒教も批判していて、そもそも儒教の門を叩いたものの、その思想に満足できずにたもとを分かった人ですから、批判は当然だし、葬式宗教と化した儒教の服喪形式は、常軌を逸脱してるとも思いますが。3年服喪とか、食事制限とか、人としての生活を破壊してるし。
ただ批判しつつも、兼愛と儒教の仁とは相通じるものがあるし、国をよくしたいという気持ちは変わらないし。
どちらが絶対的に正しいとか、そういう次元の話ではないと思うんですよね。

我々は古代の思想家や哲学者に対して、後世に批判・否定されたものは読む価値がないと思いがちです。
中国の思想家はさほどではないかもしれませんが、ヨーロッパの哲学者は、残酷なまでに次世代から批判されたりしてますよね。
だから、昔の人より、最新の哲学者の思想を読めば、ことが足りると思ってしまう。

でも、実際にはそんなことはなくて、その時代のその人だからこそ達した思想であったり、その先人から学んだからこその次世代の思想だったり、そういった積み重ねがあるわけで。
最後世にいる我らがすべきことは、先人たちの思想を自分ならどう読むかだったり、先人たちの積み重ねの上に、自分はどう考えるかだったり、そうやって考えていくことなんだなあと、まあ当たり前の終着点に落ち着くわけです。

そこを怠ると、冒頭のように、儒教を全世界的な思想と勘違いしたり、道徳と倫理の違いがあいまいになったり、他宗教・他思想の存在に気づかなかったり、これからを生きていくのに不都合なことが、ぼろぼろ出てくるんでしょう。
特に中国は目の前の大国ですから、無視できませんね。
だったら、墨子より孫子を読めよってことですけど。

今日も家族に言われましたが、人文学より理系の方が、学んで金になるかもしれません。
でも、人文学を蔑ろにしてたら、あっという間に騙されちゃうんだぞ。
誰に? 国を始めとした、権力者に。
生きていくための武器として、いろんな思想を学びましょう。
私も学びます。生きている限り。その方が、楽しいので。













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