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2021年に亡くなった著名人を「著作」を通して偲ぶ

2021年に亡くなった著名人を、その「著作」の言葉を紹介する形で偲びたいと思います。
今回紹介するのは、私が以前に読み、感銘を受けた本たちです。
ぜひ気になる本があれば、年末年始に手に取って頂けると幸いです。

○半藤一利(はんどう・かずとし) 1月12日逝去
一九三〇(昭和五年)-二〇二一。東京都・向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役などを経て、作家となる。一九九三年、『漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋)で新田次郎文学賞、一九九八年に『ノモンハンの夏』(文藝春秋)で山本七平賞、二〇〇六年に『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(平凡社)で毎日出版文化賞特別賞を受賞。
『語り継ぐこの国のかたち』の著者略歴より)

「「起きると困るようなことは起きないということにする」というような、非常識な意識。それと同時に、失敗を率直に認めず、その失敗から何も教訓を学ばないという態度。そうした傾向がどうも日本人のなかにあります。」(『語り継ぐこの国のかたち』大和書房、P68)
「言論の自由というものは、ある日突然に奪われるというものではありません。権力によって外堀から内堀へとじりじりと埋められていって、いつの間にか「自由」は動きがとれなくなる。戦前日本の歴史がそう教えてくれています。メディアよ、監視を怠るなかれ、ということです。」(『語り継ぐこの国のかたち』大和書房、P207)

○橋田壽賀子(はしだ・すがこ) 4月3日逝去
1925年(大正14年)、京城(現在のソウル)生まれ。大阪府立堺高等女學校、日本女子大学文学部卒業。早稲田大学第二文学部中退。初の女性社員として入社した松竹の脚本部を経てフリーの脚本家となる。1966年、TBSプロデューサーの岩崎嘉一氏と結婚。NHK「となりの芝生」「夫婦」「おんな太閤記」をはじめ、200本以上の作品を手がける。中でも1983年に放送された「おしん」は大反響を呼び、広くアジア各地でも放送される。また1990年からスタートしたTBS「渡る世間は鬼ばかり」は国民的ドラマとなり、以来、継続的に放送されている。
『私の人生に老後はない。』の著者略歴より)

「目にしたもの、手に触れたものを指して「これ、なあに?」を連発する言葉を覚えたばかりの小さな子どものように、自分が興味を抱いたことはどんどん試してみるべきだと思います。その点では我慢などしません。」(『私の人生に老後はない。』海竜社、P44)
「言いたいことを本当に伝えたいと思ったら、「どうすれば言いたいことがきちんと伝わるか」ということを何より考えなくてはなりません。思ったことをただそのまま口にするだけではダメなこともあるのです。人はそれぞれ違うと認めたうえで、相手のいいところを見つける。「それをそのままズケズケ言ってしまったら、こうなってしまう」というのが、私がドラマで書いている世界です。」(『私の人生に老後はない。』海竜社、P74)

○立花隆(たちばな・たかし) 4月30日逝去
1940年長崎県生まれ。64年東京大学文学部仏文科卒業後、文藝春秋新社入社。66年退社し、翌年東京大学文学部哲学科に学士入学。在学中から文筆活動を始める。74年『文藝春秋』に発表した「田中角栄研究――その金脈と人脈」は時の総理大臣を退陣に追い込み、社会に大きな衝撃を与えた。
『立花隆の最終講義』の著者略歴より)

「若いときは、ちょっとページをめくればすぐ向こう側に常に誰か正しいことを言ってる人がいるんだ、というふうに思うかもしれませんが、そんなことはないんです。哲学の領域にしても、ありとあらゆる有名哲学者は"ギリギリそこは分からない"というところで格闘してきたんですよ。自然科学では発展的世界観みたいなものがあるように見えるでしょうが、哲学の領域になると、大昔から「オレこそが人類のフロントラインだ」と思っている人がどの時代でも複数いて、いずれも今なおそれなりに価値ある言説を並べているという面白さがあります。」(『立花隆の最終講義』文春新書、P124)
「伝えられたときに、面白くてつい飛びつきたくなる情報は、だいたい相当危ないから気をつけるべきです。そういう一般的な懐疑心をいつでも持っておけということも、言っておきたいと思います。」(『立花隆の最終講義』文春新書、P265)

○俵義文(たわら・よしふみ) 6月7日逝去
1941年福岡県生まれ。中央大学法学部卒業。教科書出版社在職時および退職後、出版労連教科書対策部長・同事務局長、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会常任委員、子どもと教科書全国ネット21事務局長・同代表委員、日朝協会事務局長、和光大学・立正大学非常勤講師などを歴任。
『戦後教科書運動史』の著者略歴より)

「日本において教科書は、学校教育法によって「主要な教材」と位置づけられている。子どもや教員、教育にとってそれほど重要な役割をもつ教科書の選定を、必ずしも教育の専門家ではない教育委員が短期間にみて決めるというのは、教育にとって重大なマイナスだということは、誰の目にも明らかである。」(『戦後教科書運動史』平凡社、P406)

○益川敏英(ますかわ・としひで) 7月23日没
一九四〇年愛知県出身。理論物理学者。一九六七年名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了。京都大学基礎物理学研究所教授、同大学理学部教授などを経て、名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長、京都大学名誉教授。二〇〇八年ノーベル物理学賞受賞。専門は素粒子理論。九条科学者の会呼びかけ人。
『科学者は戦争で何をしたか』の著者略歴より)

「お金の出そうな分野でしか人が仕事をしない。あるいはお金になりそうな発明や特許に人が集中する。こうした商業主義に流される科学研究は、国策としての軍事研究にも利用されやすいという一面も忘れてはなりません。」(『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書、P89)
「戦時下における科学者の立場というのは、戦争に協力を惜しまないうちは重用されるものの、その役目が終われば一切の政策決定から遠ざけられ、蚊帳の外に置かれます。国策で動員されるということはそういうことです。「便利なものをつくってくれてありがとう」で終わり。どんな軍事兵器もそれが完成した時点で研究者、開発者の手から離れ、一〇〇パーセント政府のものとなります。そして、それがどんな危険な使い方をされようと、開発した当事者は手を出せなくなるのです。」(『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書、P49~50)

○木村敏(きむら・びん) 8月4日逝去
1931年、旧朝鮮生まれ。1955年、京都大学医学部卒業。現在、京都大学名誉教授、河合文化教育研究所主任研究員。専攻、精神病理学。著書に『自覚の精神病理』(紀伊國屋書店)、『異常の構造』(講談社現代新書)、『時間と自己』(中公新書)、『偶然性の精神病理』『心の病理を考える』(岩波書店)、『木村敏著作集』全8巻(弘文堂)、『関係としての自己』(みすず書房)など。
『あいだ』の著者略歴より)

「物質の生命活動のからくりが解明できたからといって、それはあくまで、生きている物質に特有の構造が明らかになっただけのことであって、生命それ自身の本態が暴露されたことにはならない。生きている物質が人為的に作り出されたからといって、それはそのまま生命そのものを創造したことにはならない。それは、ある人が、あるいはある生物が死んだからといって、生命そのものが消滅したことにならないのと同じことである。」(『あいだ』ちくま学芸文庫、P10)

○みなもと太郎(みなもと・たろう) 8月7日逝去
1947年、京都府生まれ。漫画家。マンガ研究家。67年、『別冊りぼん』でデビュー。70年、『ホモホモ7』を連載、ギャグとシリアス劇画を平然と融合させる新形式が以後の漫画界に甚大なる影響を与える。79年、歴史大河ギャグ『風雲児たち』を連載開始、ライフワークとなる。2004年、「歴史マンガの新境地開拓とマンガ文化への貢献に対して」第8回手塚治虫文化賞特別賞、10年、第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、20年、第49回日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞。21年、逝去。
『お楽しみはこれもなのじゃ』の著者略歴より)

「チャップリンやキートンのギャグに「流行」はない。今見ても心底楽しいのであるから。「今は時代が悪いから」という言葉は通らない。サイレント喜劇の黄金期は禁酒法時代から大不況、世界的に最悪の時代であった。」(『お楽しみはこれもなのじゃ』河出文庫、P187)
「読むなといっても子供は読むのだ。それなら作家は、よっぽど心して漫画に取り組んでやらねば子供の将来をまったくゆがめてしまいかねないのではないか。」(『お楽しみはこれもなのじゃ』河出文庫、P206)

○富山妙子(とみやま・たえこ) 8月18日逝去
1921年神戸市生まれ. 画家. 大連, ハルビンで少女時代を過ごす. 女子美術学校中退. 戦後, 炭鉱, 鉱山や慰安婦, 光州事件, そして自らの戦争体験をテーマにした作品を発表.
『〈男文化〉よ、さらば』の著者略歴より)

「戦後の日本は過去には目を閉じ、沖縄を生け贄に、アメリカ的ライフスタイルに憧れ、経済大国への道を驀進しました。自然環境を破壊し、コンクリートずくめの都市を築く。私たちが考える文化とは、その対極にあります」(『〈男文化〉よ、さらば』岩波書店、P62)

○内橋克人(うちはし・かつと) 9月1日逝去
1932年神戸市生まれ. 神戸商科大学卒業. 神戸新聞記者を経て, 1967年から経済評論家. 2021年没, 主な著書に『新版 匠の時代』全6巻(岩波現代文庫), 『始まっている未来 新しい経済学は可能か』(宇沢弘文との共著)『内橋克人 同時代への発言』全8巻(以上, 岩波書店), 『規制緩和という悪夢』(共著)『悪夢のサイクル――ネオリベラリズム循環』(以上, 文藝春秋)など
『共生の大地 新しい経済がはじまる』の著者略歴より)

「今日に明日をつなぐ人びとの営みが経済なのであり、その営みは、決して他を打ち負かしたり、他におもねったり、他と競り合うことなくしてはなりたちえない、というふうなものでなく、存在のもっと深い奥底で、そのものだけで、いつまでも消えることない価値高い息吹としてありつづける、それが経済とか生活というものではなかったのでしょうか。おぞましい競り合いの勝者だけが、経済のなりたちの決め手であるはずもないのですから。」(『共生の大地 新しい経済がはじまる』岩波新書、Pⅰ)

○色川大吉(いろかわ・だいきち) 9月7日逝去
1925年、千葉県香取郡佐原町(現・香取市)生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。東京経済大学名誉教授。歴史家。民衆史・自分史の提唱者。
主著『明治精神史』『日本の歴史21 近代国家の出発』『ある昭和史』『不知火海民衆史』(上・下)他多数。
『平成時代史』の著者略歴より)

「個としての自己存在のなかに歴史を発見してゆく。それは、自分の外部にあると思いこんでいた歴史に自分を見つけ出すことと同じなのである。自分史の醍醐味はそこにある。決してひとりよがりの道楽ではない。戦時下に生きた人、バブルの時代に踊った人には、思いあたるところがあるだろう。人はどこかで歴史と切り結んで生きている。その歴史と自分との結び目、結節点、そこに他者の目をも意識してメスを入れる。それが私の望む自分史なのである。」(『平成時代史』アーツアンドクラフツ、P142)

○十代目 柳家小三治(やなぎや・こさんじ) 10月7日逝去
1939年東京都生まれ。本名・郡山剛蔵。落語家。’55年都立青山高校入学、落語研究会に入部。「しろうと寄席」で頭角をあらわす。大学浪人中、両親の反対を押し切り、’59年柳家小さんに入門。’69年真打ち昇進、十代目小三治襲名。以来古典落語の本格派として活躍。’81年芸術選奨文部大臣新人賞を、2004年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。’14年、人間国宝に認定される。オーディオ、クラシック音楽、バイク、俳句など多趣味。著書に『もひとつま・く・ら』『バ・イ・ク』(以上、講談社文庫)『落語家論』(ちくま文庫)『柳家小三治の落語』1~3(小学館文庫)など。
『ま・く・ら』の著者略歴より)

「中ぐらいの幸せがあったら、もうとっても幸せなんだと思います。普通は、一日に少しの幸せ、うれしいこと、幸せのかけらを数珠つなぎにして、それで大きな幸せになるんだろうと、このごろ思うんですね」(『ま・く・ら』講談社文庫、P301)

○瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう) 11月9日逝去
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒業。’57年、『女子大学・曲愛玲』で新潮社同人雑誌賞受賞。’61年、『田村俊子』で田村俊子賞受賞。’63年、『夏の終り』で女流文学賞受賞。’73年、平泉中尊寺にで得度・受戒。その後、『花に問え』で谷崎潤一郎賞、『白道』で芸術選奨文部大臣賞。『場所』で野間文芸賞、NHK放送文化賞など次々と受賞。’98年、現代語訳『源氏物語』全20巻完結。2006年、文化勲章受賞。歌舞伎、能、狂言、オペラの台本も手がける。
『生きることば』の著者略歴より)

「みんな自分の身に起きた不幸が、世界一のように思いこみたがります。けれども世の中には不幸と同じくらいの幸福もばらまかれているのです。人は不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。」(『生きることば』光文社文庫、P201)

○長谷川和夫(はせがわ・かずお) 11月13日逝去
1929年愛知県生まれ。53年、東京慈恵会医科大学卒業。74年、診断の物差しとなる「長谷川式簡易知能評価スケール」を公表(改訂版は91年公表)。89年、日本で初の国際老年精神医学会を開催。2004年、「痴呆」から「認知症」に用語を変更した厚生労働省の検討会の委員。「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」を普及し、認知症医療だけでなくケアの第一人者としても知られる。
(『ボクはやっと認知症のことがわかった』の著者略歴より)

「確かに、認知症になると、現実を理解する力は十分ではないのですが、その人なりに一生懸命、考え、行動しているのです。決してでたらめな行為をしているのではありません。」(『よくわかる認知症の教科書』朝日新書)
「認知症は、加齢とは別に、脳内に異常な変化が起こることです。人間は、料理をするにしても、食べるにしても、会話するにしても、脳と身体が連携して複雑な動きを組み合わせながら生活しています。」(『よくわかる認知症の教科書』朝日新書)

○二代目 中村吉右衛門(なかむら・きちえもん) 11月28日逝去
一九四四(昭和十九)年、東京生まれ。八代目松本幸四郎(初代白鸚)の次男。祖父の初代吉右衛門の養子となる。四八年六月、中村萬之助を名のり初舞台。六六年十月、二代目中村吉右衛門を襲名。二〇〇二年、日本芸術院会員。一一年、重要無形文化財保持者(人間国宝)。一七年、文化功労者。
『夢見鳥』の著者略歴より)

「落語と歌舞伎は、ともに江戸の言葉や生活を伝えるものとして互いに影響し合って現代に生きています。子供のころはラジオで落語や講談をよく聴きました。疎開先の日光から東京に戻ったころ、家に居候していた村上(村じい)という男衆が持っていたラジオで、広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」などをよく聴いていました。先代の三遊亭金馬師匠の落語もよくやっていました。言葉遊びのようなネタが子供の私には面白かったのを覚えています。」(『夢見鳥』日本経済新聞出版社、P111)


(今回の記事では、漫画家の三浦健太郎さん、さいとう・たかをさん、アニメーターの大塚康生さんなど、著作はあるもののご紹介できていない方がいます。その方々をふくめ、改めてご冥福をお祈りいたします。)


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