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古本市のない生活⑫「別れた本との、予期せぬ再会」

本来であれば、本日(8月11日)から、下鴨納涼古本まつりが開催されるはずだった。
しかし、世界各地で猛威をふるっている某感染症の影響により、開催は中止となってしまった。
なんとなく予想はしていたが、やはり実際に実現してしまうと辛いものがある。

京都には、古本界の三大まつりが存在する。
5月のGW中に開催される「春の古書大即売会」、8月の「下鴨納涼古本まつり」、そして百萬遍知恩寺での「秋の古本まつり」、である。
以上のうち、春と夏の古本まつりが、感染症によって中止となってしまった。残りは「秋の古本まつり」だけとなったが、現在の感染状況を見た感じでは、厳しい結末を迎えることになりそうである。……2020年は、古本を好む人間にとって、大変辛い一年となりそうだ。

毎年私は、自身のスケジュールを、古本まつりの開催期間にあわせて計画している。そこには、「古本まつりは必ず開催される」という前提があった。しかし、今年はその前提が見事に崩されて、何も予定が組まれていない数日間が、私の目の前に現出した。
春の古本まつり中止のときもそうだったが、私はこの数日間を、ひたすら「古本」について考えることに使おうと思っている。
その始まりとして、今回は作家が残した古本に纏わる文章を紹介することを通して、少しでも多くの人に古本の魅力を知ってもらいたい。

それではさっそく、古本話の紹介にうつる。

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○今回の一冊:薄田泣菫「古本と蔵書印」(『艸木虫魚』岩波書店)

本屋の息子に生れただけあって、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だった。巴里のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでいて、皺くちゃな婆さん達が編物をしながら店番をしているのは誰もが知っていることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、この古本屋の店さきに立って、手あたり次第にそこらの本をいじくりまわして、いろんな知識を得たのみならず、老年になっても時々この店さきにその姿を見せることがあった。フランスはこの古本屋町を讃美して、「すべての知識の人、趣味の人にとって、そこは第二の故郷である。」と言い、また「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなった。そこでは古本屋が景色の一部をなしている。」とも言っている。彼はこの古本屋から貪るように知識を吸収したが、そのお礼としてまたいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかった。――というのは外のことではない。彼が自分の文庫に持てあました書物を、時折この古本屋に売り払ったことをいうのだ。
 一度こんなことがあった。――あるときフランスは来客を書斎に案内して、自分の蔵書を一々その人に見せていた。愛書家として聞えている割合には、その蔵書がひどく貧しく、とりわけ新刊物がまるで見えないのに驚いた客は、すなおにその驚きを主人に打ちあけたものだ。すると、フランスは、
「私は新刊物は持っていません。方々から寄贈をうけたものも、今は一冊も手もとに残していません。みんな田舎にいる友人に送ってやったからです。」

と、言いわけがましく言ったそうだが、その田舎の友人というのが、実はセイヌ河のほとりにある古本屋をさしていったのだ。
 そのフランスを真似るというわけではないが、私もよく読みふるしの本を古本屋に売る。家が狭いので、いくら好きだといっても、そうそう書物ばかりを棚に積み重ねておくわけにも往かないからである。
 京都に住んでいた頃は、読みふるした本があると、いつも纏めて丸太町川端のKという古本屋に売り払ったものだ。あるとき希臘羅馬の古典の英訳物を五、六十冊ほど取揃えてこの本屋へ売ったことがあった。私はアイスヒュロスを読むにも、ソフォクレエスを読むにも、ピンダロスやテオクリトスを読むにも、ダンテを読むにも、また近代の大陸文学を読むにも、英訳の異本が幾種かあるものは、その全部とは往かないまでも、評判のあるものはなるべく沢山取寄せて、それを比較対照して読むことにしているが、一度読んでしまってからは、そのなかで自分が一番秀れていると思ったものを一種か二種か残しておいて、他はみな売り払うことにきめている。今Kという古本屋に譲ったのも、こうしたわけで私にはもう不用になっていたものなのである。
 それから二、三日すると、京都大学のD博士がふらりと遊びに来た。博士は聞えた外国文学通で、また愛書家でもあった。
「いま来がけに丸太町の古本屋で、こんなものを見つけて来ました。」
 博士は座敷に通るなりこう言って、手に持った二冊の書物をそこに投り出した。一つは緑色で他の一つは藍色の布表紙だった。私はそれを手に取上げた瞬間にはっと思った。自分が手を切った女が、他の男と連れ立っているのを見た折に感じる、ちょうどそれに似た驚きだった。書物はまがう方もない、私がK書店に売り払ったなかのものに相違なかった。
「ピンダロスにテオクリトスですか。」
 私は二、三日前まで自分の手もとにあったものを、今は他人の所有として見なければならない心のひけ目を感じながら、そっと書物の背を撫でまわしたり、ペエジをめくって馴染のある文句を読みかえしたりした。
「京都にもこんな本を読んでる人があるんですね。いずれは気まぐれでしょうが……」
 博士は何よりも好きな煙草の脂で黒くなった歯をちらと見せながら、心もち厚い唇を上品にゆがめた。
「気まぐれでしょうか。気まぐれに読むにしては、物があまりに古すぎますね。」
 私はうっかりこう言って、それと同時にこの書物の前の持主が私であったことを、すなおに打明ける機会を取りはずしてしまったことを感じた。
「それじゃ同志社あたりに来ていた宣教師の遺愛品かな。そうかも知れない。」
 博士は藍表紙のテオクリトスを手にとると、署名の書き入れでも捜すらしく、前附の紙を一枚一枚めくっていたが、そんなものはどこにも見られなかった。
 私は膝の上に取残されたピンダロスの緑色の表紙を撫でながら、前の持主を喘息か何かで亡くなった宣教師だと思い違いせられた、その運命を悲しまぬわけに往かなかった。
「宣教師だなんて、とんでもない。宣教師などにお前がわかってたまるものかい。――だが、こんなことになったのも、俺が蔵書印を持合さなかったからのことで。二度とまたこんな間違いの起らぬように、大急ぎで一つすばらしい蔵書印をこしらえなくちゃ……」

 私はその後D博士を訪問する度に、その書斎の硝子越しに、幾度かこの二冊の書物を見た。その都度書物の背の金文字は藪睨みのような眼つきをして、
「おや、宣教師さん。いらっしゃい。」
と、当つけがましく挨拶するように思われた。
 私はその瞬間、
「おう、すっかり忘れていた。今度こそは大急ぎで一つ蔵書印のすばらしく立派な奴を……」
と、いつでも考え及ぶには及ぶのだったが、その都度忘れてしまって、いまだに蔵書印というものを持たないでいる。
」(P260~264)

今回紹介した古本話は、詩人・随筆家の薄田泣菫の『艸木虫魚』の中の一篇である。
(薄田泣菫は「すすきだきゅうきん」と読み、『艸木虫魚』は「そうもくちゅうぎょ」と読む。おそらく余程直感に優れた人物でなければ、初見でこれらの名前・書名を読むことができる人間はいないだろう(1)。)
ここでは、古本との別れと、予期せぬ再会が描かれる。
舞台は京都。自分が古本屋に売って手放した古本2冊が、ある日知人の教授の持ち物となって、目の前に現れる。薄田はこの時の心情を、別れた元恋人との再会と表現しており、なんとも味わい深い。
自身の友人が、かつての恋人を連れて目の前に現れたとき、自分に襲いかかってくる恥ずかしさや気まずさのようなものを想像してみる。「よっ、久しぶりやな。あっこの子、俺の元恋人な」などと、気軽に口火を切れる人間など滅多にいるわけがなく、ただただ黙って他人行儀の振る舞いをするほかはない。(人間の場合、元恋人の方にも、一定の構えが求められるわけだが……。)
薄田の場合も、知人の教授に、かつて自分が持っていた本であることを告白することはできなかった。手放した2冊の古本に思いがけず再会し、感慨に耽りながらその表面を撫でる薄田の心情を考えると、淡い思いに心が満たされていく。

薄田は最後、別れた古本にこうしゃべらせている。
「おや、宣教師さん。いらっしゃい。」
本好きの周りでは、本が口を開き、言葉を話しはじめるのだ。
この感覚に、強く共感を覚えた。

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【脚注】
(1)薄田泣菫について知りたい方は、倉敷市・薄田泣菫文庫調査研究プロジェクトチーム編『薄田泣菫読本』(翰林書房)を手に取ってみることをお薦めします。

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