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台湾の秋雨が囁く“忘れられた元日本兵”の記憶|白露~秋分|旅に効く、台湾ごよみ(23)

旅に効く、台湾ごよみは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習などを現地在住の作家・栖来すみきひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。今回は、玉蘭の葉を濡らす雨音が囁きかける“忘れられた元日本兵”の記憶を紐解きます。

台風の季節である。

日本でかつてはこの頃の暴風雨を「野分け」といった。聞いただけで、地の肌がみえるほど草木が腰を曲げ嵐に耐える日本の里山が脳裏にうかび、上手い表現だなあと感心する。「猪のともに吹かるる野分かな」と芭蕉の句にあるように、イノシシでさえ吹き飛ばされそうな風である。

野分けが颱風たいふうの名で呼ばれるようになったのは、明治末期のこと。戦後に「台風」と改まったが、台湾では現在も「颱風」と書く。

颱風の語源には諸説あるが、ギリシャ神話のなかでゼウスに匹敵するほどの力を持つ怪物テューポーンが英語のタイフーンになり、そこに中国大陸南部で「大風」という漢字が当てられ、更にはいつも台湾の方からやってくるので「大」が「颱」に変化したという説が好きだ。台湾の東海で産まれる小さな渦巻きから出来た台風が、台湾とは切っても切れない仲であることが一つの漢字に表れでている。風に乗った台の字を見つめていると、台湾が筋斗雲に乗った孫悟空のように勇ましく見えてちょっぴり愉快な気持ちにさえなる。

愉快というとちょっと不謹慎ではあるが、台風の多い台湾では大きな影響が予想される場合「停班停科」といって学校や仕事が休みになるので、わくわくしながら台風休みを待つ人も少なくない。

旧暦の9月(新暦では10月ごろ)には北方の気圧の関係で、台湾付近に来た台風が挙動不審となる。これを台湾では特に九月颱カウグエタイとも呼ぶ。進路がみえず、時に行きつ戻りつした台風が大きな被害をもたらすので、古くから「九月颱カウグエタイ無人知ブオランツァイ」のことわざもある。ところが、ここ数年は旧暦9月といわず台風の進路が読めなくなってきた。どの台風も台湾に上陸する直前でぎゅうんとカーブを描いて別方向に進む。まるで磁石のおなじ極どうしが反発するような不思議な曲がりようである。

飛行機の窓から見える独特の営み

先日、久しぶりに日本へ一時帰国し、台湾に戻ってきたときもそうだった。台風直撃の予報で着陸を危ぶんでいたものの、結局大きく逸れていったので影響はなかった。とはいえ、台風が全く来ないのも困りものだ。ここ数年は台風が上陸せず、台湾各地の貯水ダムで渇水の心配が絶えない。

水といえば、一時帰国のおかげで独特の台湾の風景にも再会できた。

飛行機が桃園空港に向けて下降するにしたがって、窓の外に大きなソフトクリームのような積乱雲が浮かんでいる。それをくぐると、大地のいたるところにきらきらと日光に反射する翠緑色の丸い池が見え、小さな鏡が一面に刺繍されたインドの美しい布を思わせる。

台湾北部の桃園は、淡水河の支流である大漢渓が雪山山脈を削りながら土砂をはこび、氾濫を繰り返しては堆積してできた扇状地だ。桃園台地へは大漢渓からの取水が難しく、また砂岩で出来た扇状地は水が染み込みやすいので、雨が降ってもすぐに干上がってしまう。そこで知恵と汗を絞って作られたのが、桃園の地に広がる灌漑用のため池群(陂塘)である。

清朝統治時代に書かれた『淡水廳志』という地方史によれば、桃園台地で最初のため池は、中国大陸から開拓に渡ってきた漢人と、元々桃園に住んでいた原住民*が共同開発したもので、4個のため池と水路で6つの村の田んぼを灌漑した。完成後の水利権は原住民が6で漢人側が4。漢人が労働力を提供して灌漑施設をつくり収穫の一部を納める代わりに、水利権と土地使用権を与えるなどの取引があったのだろう。

その後は漢人との通婚が進んで部落が消滅したり、山地へと追いやられたり、日本統治時代以降も差別を受け、現代にいたってもマイノリティとして苦しい生活を余儀なくされている原住民の人々は少なくない。だが、元をたどれば台湾という土地の主人が彼らであったことは、桃園のため池の歴史を見てもよくわかる。

さてこの桃園のため池、かつては最大で8800個以上を数えたというが、日本統治時代以降に疎水の完成と共にだんだんと整理され、現在では2800個ほどになった。とはいえ、これほどの数のため池が集中しているのは世界でも類を見ないという。水利のほか魚の養殖にも利用されるこの独特の水の営みを空から見るたび、「台湾に帰ってきたなあ」という感じが深まる。

*「原住民」「台湾原住民族」とは現代台湾における先住民の正式名称で、以前は「番人」「蕃人」「高砂族」「山地人」などと呼ばれていた当事者らが社会運動を経て自らの呼び名として勝ち取り、現在は憲法にも明記されている。

忘れられた元日本兵

9月9日は日本では「重陽の節句」だが(台湾では旧暦9月9日)、言語学者の王育徳(1924-1985)氏の命日でもある。

王育徳は日本統治時代の台南に生まれ東京帝国大学で学んだが、戦後に台湾を統治した中国国民党政権を批判、1949年に日本へ亡命した。亡命を手助けしたのは直木賞作家で「金儲けの神様」として知られた邱永漢。王育徳と邱永漢は同郷で台北高校の同級生であった。その後は東京大学に復学して「台湾語」研究で博士の学位を取得、台湾史や「台湾語」について多くの著作を世に送り出したほか、台湾独立運動に尽力した。そしてもうひとつ、王育徳が奔走したのが「台湾人元日本兵」のための補償請求運動であった。

「台湾人元日本兵」の問題を世に知らしめたのは、1974年にインドネシアのモロタイ島で発見され1975年に台湾へと帰国した元日本兵の台湾原住民アミ族の、中村輝夫さん(アミ族名:Suniuo(スニヨン)/漢名:李光輝)である。

スニヨンさん(これ以降、中村さんと書く)は1919年、日本統治下の台東で生まれ23歳のときに志願兵として太平洋戦争へ出征し、仲間の部隊とはぐれたまま行方不明となり、そのままモロタイ島のジャングルの奥で30年近く過ごしていたのを発見された。

還ってきた台湾人日本兵』(河崎眞澄・著/文春新書/2003)によれば、中村さんは発見されたとき、はっきりした標準日本語で所属部隊名、自分の階級、氏名、本籍地などを答え、日本に帰りたいと言ったそうだ。裸ながら、手持ちの山刀で髪の毛とヒゲをいつもさっぱりと剃り、タロイモやバナナ、畑でつくったサツマイモを食べて川の水を飲み生きながらえた。また中村さんの一日は、起きると洗面のあとに日本の皇居の方角に向かって宮城遙拝し、体操をすることから始まったという。

驚いたのは、発見後にジャカルタの病院で治療を受けた中村さんが30年ぶりに風邪をひいたという話だ。人間の感染症からはるか離れたジャングルのなか、いかに中村さんが他人と隔絶された日々を過ごしていたかわかる。

しかし、横井庄一さん、小野田寛郎ひろおさんという、中村さんの前に発見された「残留日本人兵」に比べて、もっとも長く「太平洋戦争」を戦ったともいえる中村さんに対し日本社会の反応は冷たく、横井さんや小野田さんのように日本人の記憶に残りはしなかった。その理由のひとつを筆者の河崎眞澄さんは、「中村が日本統治下の台湾で生まれ、高砂族たかさごぞくと呼ばれる先住民族の血を引いていたから。いわく、元日本兵だが、日本人ではなかった」からではと書いている。

「高砂族」とは、日本統治時代後期に台湾原住民族に対してつけられた名称で、日本でかつて台湾が「高砂国」と呼ばれていたことに由来する。1930年に現南投県なんとうけん仁愛郷の霧社むしゃで起こった原住民による武装蜂起事件「霧社事件」をきっかけに、原住民の人々の山の中での知恵や勇敢さ、忠誠心の高さに注目した日本帝国陸軍は、原住民の男性らに志願を募り「高砂義勇兵」と呼んで戦地へと送り出した。

日本統治下で立場も経済的にも弱かった原住民の人々は、皇民化教育*のもと、自分たち民族の誇りと当時の共同体(日本)への帰属感を同一視していくようになる。また、「霧社事件」で蜂起側に立った村の男子らが、事件によって受けた汚名を晴らすために高砂義勇兵に志願するなどの例も少なくなかった。

*元から台湾に住んでいた台湾人も、内地から来た日本人も皆「天皇の赤子」である「日本人」として教育する同化政策で、植民地下において戦争への総動員体制を築くことを目的とした。

単なる「愛国心」とはとても言えない感情とアイデンティティと歴史が複雑に絡み合うなか、南洋のジャングルで正規軍のために食料調達や接近戦での切り込み役を担った「高砂義勇兵」。合計一万人以上が出征し半数は戦死したといわれるが、多くが軍属として扱われたため記録さえ残っていない。生還した人も終戦と共に日本国籍を失ったため、満足な恩給や補償も受け取れておらず、多くの元高砂義勇兵が辛い余生を送ったという。また、台湾人元日本兵への補償問題は台湾原住民に限ったことではなく、かつて「日本人」として生き戦った人々の人権問題として、今も解決を見ずにいる。

中村さんは発見後に故郷の台東へと戻ったが、すでにそこは「日本」ではなく、妻も再婚したあとだった。他の元台湾兵とは異なり、政府や支援団体の特別見舞金などで多くの補償を受け取ったものの、日本語を母語として育ったので北京語も台湾語(ホーロー語)も満足に話すことのできない中村さんは浦島太郎のように孤立し、タバコや酒に浸り身体をこわして1979年に病死した。ただただ生きて「日本」に帰ると心に決めて30年近くを生き抜き、ようやく生まれ故郷へ帰ってからたった4年後のことだった。

声なき声に耳を澄ませる

そういえば中村さんは、月が満ちるたびに麻の紐に結び目をつけ、年月を数えていたらしい。

昨晩は「中秋節」で素晴らしい中秋の名月が台湾でも日本でも見られたが、またも颱風が近づいているようで、今日は打って変わって激しい雨が降りしきっている。ベランダに出てみると、玉蘭の樹が雨粒に打たれながら鮮やかな緑の葉を揺らす。しのつく雨音に耳を澄ませてみれば、あの戦争のために亡くなった無数の台湾のひとびとの声なき声が語り掛けて来るような、台湾の秋雨である。

▼参考リンク
台湾出身「元日本人」国籍復帰確認裁判の判決下る〜取材者として見つめてきた先輩達「最後の戦い」

文・絵=栖来ひかり

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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