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「聖徳太子」と「厩戸皇子」、正しい呼び名はどっち? |御遠忌1400年で迫る古代史のカリスマの実像(1)

文・ウェッジ書籍編集室

今年は聖徳太子が世を去ってから1400年という節目の年にあたります(没年には諸説あり、2021~2023年が御遠忌の年にあたる)。聖徳太子と言えば、冠位十二階や憲法十七条を制定し、推古天皇の摂政として、遣隋使を派遣して大陸の文化や制度を積極的に取り入れたことで知られています。また、日本に仏教を広め、法隆寺や四天王寺などを建立した人物としても有名です。今年は1400年御遠忌の行事や法要などが各地で予定されており、奈良国立博物館と東京国立博物館では、特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催予定。古代史のカリスマ・聖徳太子への注目が集まっています。
この連載では、駒澤大学文学部教授・瀧音能之編聖徳太子に秘められた古寺・伝説の謎(ウェッジ)から、聖徳太子の実像に迫ります。

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大豪族・蘇我氏の血が濃い皇子

 聖徳太子の生涯や事績は後世に潤色され、伝説化された部分が多いと言われますが、史料としていちばん基本となるのは、養老4年(720)に成立した『日本書紀』です。

『日本書紀』によると、聖徳太子は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)を父として生まれています。橘豊日尊は、のちの用明(ようめい)天皇(在位585~587年)です。母は橘豊日尊の異母妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。

『日本書紀』は太子の生年を記していません。太子の生年については古来、複数の説が唱えられてきましたが、『日本書紀』に次いで太子の事績に関する基礎史料となっている『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』は敏達(びだつ)天皇3年(574)としており、これが定説となっています。

『上宮聖徳法王帝説』は平安時代なかばに最終的に成立したとみられる太子伝ですが、主要な部分は8世紀なかばまでには書かれたとされ、『日本書紀』にはみられない独自の内容も含んだ、古代史の重要史料です。

 橘豊日尊は欽明(きんめい)天皇の皇子ですが、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・堅塩媛(きたしひめ)を母としています。穴穂部間人皇女も欽明天皇を父とし、堅塩媛の妹・小姉君(おあねのきみ)つまり稲目の娘を母とします。

聖徳太子家系図

 つまり聖徳太子は、父方と母方の双方で、父系では欽明天皇の血を承(う)け、同時に母系では蘇我氏の血も承けているのです。蘇我氏は6世紀から7世紀なかばにかけて、大臣の地位を世襲すると同時に天皇家の外戚となって権勢を誇った大豪族で、稲目の嫡子・馬子(うまこ)の時代に全盛期を迎えています。ちなみに太子はその馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)を妃に迎えています。

①石舞台古墳

石舞台古墳。被葬者は天皇家の外戚であった蘇我馬子とされる(奈良県明日香村)

 聖徳太子が蘇我の血が濃い皇子であったこと、つまり聖徳太子が当時の大豪族の後ろ盾としていたことは、太子の事績を考えるうえで、見落とすことのできない重要なポイントになります。

本名は「厩戸皇子」

 もうひとつ重要なことを指摘しておくと、『日本書紀』には「聖徳太子」という表記はありません。

 聖徳太子に対しては古くからさまざまな呼び名が用いられていますが、『日本書紀』では、たんに「皇太子(ひつぎのみこ)」と呼ばれています。そして、『日本書紀』から読み取れる彼の実名(諱<いみな>)は「厩戸皇子(うまやとのみこ)」です。

『日本書紀』によれば、「厩戸」の名は、宮中をめぐっていた母親が厩の戸にさしかかったときに出産したことにちなみます。この名前のいわれについては他にも説があり、『上宮聖徳法王帝説』にもとづく太子の生年(574年)は干支が「甲午(きのえうま)」なので、生まれ年の干支(午=馬)にちなんで「うまやと」と名づけられたのでは、と推定する人もいます。

②上宮聖徳法皇帝説

『上宮聖徳法王帝説』は現存する聖徳太子の伝記としては最古のもの

 厩戸皇子のことを「聖徳太子」と呼んだ最も古い文献は、奈良時代なかばに編まれた漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の序文です。ただし、「聖徳」だけに着目するなら、慶雲(けいうん)3年(706)に刻された法起寺(法隆寺の北東に建つ寺院)の塔の露盤(ろばん)の銘文(現物は失われている)に「聖徳皇」という表記があり、また『日本書紀』にも厩戸皇子の異名として、「東宮(ひつぎのみこ)聖徳」(敏達天皇紀)や「豊耳聡(とよみみと)聖徳」(用明天皇紀)が記されています。

尊称としての「聖徳太子」

「聖徳」とは「聖人のような高い人徳をそなえている」というような意味であり、「太子」とは厩戸皇子が叔母にあたる推古天皇の皇太子に立てられたという伝承にもとづく称号です。

 おそらく「聖徳太子」とは、天皇に即位することなく亡くなった厩戸皇子に対して、彼の没後に贈られた尊称、つまり諡号のようなものだと考えられます。また、「豊耳聡」(「豊聡耳(とよとみみ)」とも書かれる)は聡明さを表現したもので、彼が多数の人の訴えを聞き分けたという伝えに由来していると考えられます。

 というわけで、この人物の呼称としては「厩戸皇子」が最も適確であり、歴史的人物としての「厩戸皇子」と、没後に神秘化され信仰の対象ともなった伝説的人物しての「聖徳太子」とは明確に区別すべきだという意見もあります。とはいえ、「聖徳太子」は日本人によく親しまれている呼び名です。そこでこの連載では、原則として「聖徳太子」(または、たんに「太子」)という呼称を用いることにします。

 ちなみに、聖徳太子に対する呼び名としては、「上宮(じょうぐう)太子」(「上宮」は「かみつみや」「うえのみや」とも読まれる)も歴史的には広く用いられてきました。この名は幼年時代の太子が父親の宮の南にあった「上殿(うえのみや)」に住んだとする伝承に由来するといわれ、太子生前から用いられていたと考えられます。

③上之宮遺跡

上之宮遺跡の園池遺構(復元)。「上之宮」の地名は聖徳太子が幼い時に過ごした宮殿にちなむ説がある(奈良県桜井市)

――御遠忌1400年を迎える聖徳太子については、『聖徳太子に秘められた古寺・伝説の謎』(瀧音能之編、ウェッジ)の中で、写真や地図を交えながらわかりやすく解説しています。


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