静かに進化するトルコの食文化(1)|イスタンブル便り
「ねえ先生、うちのおじいちゃん、あのベトナム料理の、生春巻きにはまっちゃって、『ほら、お前がこの間作ったあのサルマ(葡萄の葉でお米を巻いたトルコ料理)が食べたい』なんていうんですよ。」
講義の休憩時間にそんな話をしてくれたのは、大学院修士課程で私が論文指導をしていた学生、ブシュラーだった。コロナがようやく下火になって、マスクをしながらだが対面授業になってすぐの頃だったから、2年くらい前だろうか。
それを聞いて、隔世の感に捕らわれたのを、よく覚えている。ブシュラーはトルコ南東部のアダナ出身。おじいちゃんは、彼女いわく、「いわゆるアダナの、昔からいる典型的なデデ(おじいちゃん)」タイプ。外国に行ったこともなければ、外国語も喋らない。全然外国料理を食べないどころか、そもそも外食をしない、自分の奥さんが作ったもの以外は食べたがらない人だったのだそうだ。
イスタンブルに住んでいるとあまり感じないが、トルコの地方では(知らないだけでもしかしたらイスタンブルでも)、そういう人の方が大多数を占めるのではないだろうか(日本に似ている)。わたしの印象としては、トルコの一般的な人の食の好みは保守的だ。
「日本人って、魚をチー(生)で、食べるんですって?」
留学直後、薄気味悪そうに尋ねられたことがあった。それが今は、どうだ。人々は、「SUSHI! スシ! 寿司!」と、目の色を変える。
そもそも、日本ほど日常の食生活に外国料理が多く入っている国も、珍しいのではないか。カレーライスやスパゲッティ、ハンバーグやコロッケなどの「洋食」は、もはや日本料理の一部とも言えるくらいだし、外国料理レストランも、数、種類、規模、質のどれをとっても、世界的に見て格段に高いように思う。
その点トルコでは、一般家庭で外国料理が食卓に登場するのは稀だ(った)。これはイタリアでも同様だ。一般的なイタリア人家庭では、毎日ほぼイタリア料理、外国料理は食べたがらない人も多い。
ところが、コロナの外出禁止期間がすべてを変えた。全世界的にそうだと思うが、外に出かけられない、レストランでご飯を食べられなくなった人々の関心は、内へ、内へと向かった。YouTubeやTikTokなどの動画サイトで、遠い異国に暮らす誰かの日常生活を見ることができるようになった。
大学院の別の学生、アイチャのおばあちゃんは、コロナの外出禁止期間中に、韓国に住むある家族の日常生活を毎日垣間見ることが楽しみになり、韓流ドラマを見たり、韓国料理も食べたりするようになったそうだ。スカーフで頭を覆った、典型的なアナトリアの高齢女性の外見からは、そんなグローバルな嗜好はすぐには想像できない。こちらの先入観を、嬉しい意味で覆されるようなことが起こっている。
シニア世代だけではない。ここ2、30年の変化といえば、経済的に豊かになって、若い世代が普通にカフェでお茶を飲んだり、食事をしたりできるようになった点だ。わたしが学生だった30年近く前は、大学院の同級生に、「レストランでご飯を食べよう」と、こちらからはなかなか言い出せなかった(だから逆に、人を家に招待するのが好きになった)。
* * *
コロナが明けてから、いよいよ本格化した印象を受けるのが、イスタンブルの外食文化の国際化だ。それに拍車をかけたのが、2011年来のシリア危機による移民だ。統計によると、トルコ政府は、30万人以上のシリア移民を受け入れた。その多くはトルコ国籍取得も可能になる形だ。これは、旧オスマン帝国領土内の国出身の人々に与えられる特別措置だろう。
わたしが教える大学でも、シリア出身やイラン出身の学生がいる。聞けば、8歳から12、3歳くらいの時に家族に連れられてトルコへ移住し、ここで育った。もちろん、言葉や生活習慣などのギャップに慣れるのに苦労したそうだ。だが、現在ではトルコ語にも不自由なく、トルコの国立大学に外国人枠ではなくトルコ国籍保持者として受験・入学し、勉強している。
イスタンブル市内で移民が多い地区といえば、旧市街のアクサライだ。ウクライナやロシア、東欧の黒海沿岸地域からの国際長距離バスが到着するターミナルがあったからだ。ソ連の崩壊直後の1990年代ごろからその傾向が顕著になり、アクサライは、その時々、事変に弾き出されて移住せざるをえなかった世界各国の人々の生き様を反映する地区となった。
シリア危機以降、シリア式のカルダモンの入ったコーヒーを飲ませる店が登場し始めた。店内に、シリアのハマやアレッポの風景を描いた店などもあり、移住直後のひとびとの心を癒し、情報交換などの交流の場になっていたのがわかった。それが数年すると、シリア風の魅力的な装飾を凝らした、少し贅沢な店が出てきた。移民して故郷の味を恋しがる人向け、というより、トルコ人やトルコへ観光旅行でやってきた外国人がターゲットだ。
わたし自身は、数年来、ウイグル料理の「ラグ麺」にはまって、この街に通い続けている。ラグ麺とは、小麦粉で練った生地を細長く延ばし、二つ折りにして両はしを持ってぶんぶん振って長く延ばし、それをまた二つ折りにしてぶんぶん振って…、というのを何度か繰り返して作る麺料理だ。延ばすときに、生地の表面を植物脂に浸すところがうどんと違っている。二つ折りを延々と繰り返すので、供される麺は、「一本の」長い長い麺である(だから、シェアするのが難しい)。茹でた麺と、 肉や野菜を炒め、独特の旨味のあるソースが別に出てきて、上にかけていただく。
ひとつだけ難点を言えば、ラグ麺は、注文を受けてから作り始めるので、出てくるまでに20分くらいかかる。急いでいる時には注文しないほうが良い。
ツルツルした麺は、ある程度の太さがあり、シコシコとコシがある。きちんと作りすぎず、不均等に太いところや細いところがある点も、素朴な味わいがある。日本人にとっては、中華料理に似たところもあるし、少しトルコ料理にも似ているので、なじみやすい。初めて食べるのに懐かしいような味である。そして、一口食べるごとに、体の深いところから食欲が湧いてくるような、不思議な食べ物である。
わたしなどは、しばらく行かないでいると、なぜかあの味が食べたくなって、いつの間にかまた足を運ぶことになる。平均すると月に一度は行っているのではないか。
ウイグル人の話すウイグル語という言語は、トルコ語に大変似ている。ウイグル語が母国語の人は、トルコに来て一週間もすれば不自由なく話せると聞いたことがあるが、スペイン語とイタリア語の関係よりも、近いかもしれない。トルコ国籍を取得して起業した家族もいるし、トルコ人と結婚して経営するトルコ人・ウイグル人カップルの店もある。形態は様々である。
ひところ、アクサライの裏通りに、お父さんが料理人でお母さんがお給仕、息子が手伝いをする小さな店があった。注文しなくても、魔法瓶でジャスミンティーが自動的に無料で出てきた。表通りの大きな店に比べて、家庭的な雰囲気が好きで、通いつめたものだった。ある日行くと、店は開いているが、お父さんもお母さんもいない。尋ねると、いとこの自分が店を預かっているが、息子がアメリカに渡ってお店を開いたので、父母を呼び寄せた、と誇らしげに話してくれた。
いとこはしばらくすると結婚したらしく、若い奥さん好みに店のしつらいが変わった。 藤編み風(実はプラスチック)のブランコのような椅子が天井からぶらさがり、ピンクの造花が壁一面に貼り付けられていた。今時のいわゆる「なんとか映え」である。料理も、お父さんのあの味ではなくなってしまったので、そのうち行くのをやめてしまったが、アメリカに渡ったあの家族は、今も仲良く暮らし、お父さんは麺をブンブン振って延ばして、二つ折りにして、を繰り返しているのだろうか。
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困難な状況から抜け出してひとまず落ち着き、次の移住先を見つけるまでの足場。イスタンブルは、歴史的にそんな場所でもある。建築家のブルーノ・タウト、ロシアの政治思想家トロツキー、哲学者アウエルバッハ。1930年代、ナチやスターリンの支配から逃れてひとまずの落ち着き先をイスタンブルに求めた知識人や建築家は多い。トルコ共和国の建国の時期とも重なり、トルコは俄かに高度な知性が集中する地となった。イスタンブルを往来する移民たちの軌跡を、わずかながら垣間見て、そのような時代と現代が重なって見えるのは、あながち偶然ではない気がしている。
アクサライには、シリアもイエメンもモスル(イラクの地方)もウイグルも、仲良く軒を連ねている。ロシア料理やウクライナ料理の店はまだあまり見かけないが、それも時間の問題かもしれない。
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さて、改めてトルコ料理はどうか。
南西部、地中海のオリーブオイル、南東部、アラブの獣脂系に黒海地方・スラブ系のバターや乳脂。もともとトルコの食文化は、地方性が豊かだ。食材も、さまざまな多様性に富んでいる。だが、生産や流通の関係か、質の高いものが全国的、あるいは国際的に知られるにはハードルが高かった。
おそらく近年の経済的発展は、美食の世界にも確実に影響を及ぼしている。星付きレストランランキングで有名な「ミシュラン」が、初めてイスタンブル版を発表したのは、つい去年のことだ。庶民の胃袋を満たす様々な選択肢が増える一方で、トルコ料理の洗練の度合いも、 国際的なステージを得てさらに増している、という印象である。
次回は、気になる店が増えてきた、イスタンブル旧市街のシリア人街の食文化を紹介したい。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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