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いま、この時代に『古事記』を読むことの意味

昨年7月に刊行された古事記に秘められた聖地・神社の謎(神道学者・三橋健 編、ウェッジ刊)より、「はじめに」の部分を転載します。

古事記に秘められた聖地・神社の謎
(三橋健 編)

 本居宣長もとおりのりながは明和元年(1764)、35歳のときに『古事記』の注釈に着手し、35年間をついやして、寛政十年(1798)六月十三日に、『古事記伝』全44巻を完成させた。宣長69歳のときである。この前人未踏の精確な注釈書は、近世のみならず、現代においても高い評価を得ている。そこではじめに、宣長が『古事記』に興味を持ち、その注釈を決意したきっかけを簡単に述べておきたいと思う。

 宝暦七年(1757)、京都遊学を終えた宣長は、松坂まつさか(三重県松阪市)に帰り、魚町うおまちで町医者を開業していた。その一方で『源氏物語』『日本書紀』『先代旧事くじ本紀ほんぎ』『古事記』などの研究に興味をもち、とりわけ国学者・賀茂真淵かものまぶちの『冠辞考かんじこう』に感銘し、国学を志したのである。そのようなときに、一夜だけではあるが松坂の旅籠はたごで真淵と対面し、『古事記』注釈の指導を受けたものと思われる。

 そしてその年の終わり頃、宣長は真淵の県門けんもんへの入門が許可された。次いで時を移さず、翌明和元年から『古事記』の注釈にとりかかり、以後、35年間をついやして寛政十年六月十三日に『古事記伝』を完成させた。

 ところで、注目されるのは『古事記伝』完成の4ヶ月後、詳しくは寛政十年十月二十一日の夕方、宣長が『うひ山ぶみ』を著したことである。これは国学を志す門人にむけた入門書で、その心構えや態度が平易に説かれている。

 そのなかで私が心を惹かれるのは、記紀きき(『古事記』『日本書紀』)二典の「上代の巻々をくりかへしくりかへしよくよみ見るべし」と説くことである。

 この宣長の教えに従い、私は『古事記』を繰り返し読んできた。しかし、読むたびごとに新鮮な気持ちになり、何度読んでも読み終わった感じがしない。それどころか登場する神々とともに幽遠な世界に誘われる。

 大学で『古事記』を講義することになり、あらためて宣長の「よくよみ見るべし」の真意を考えてみた。「よむ」だけではなく「見る」べきだと説いている。この「見る」の真意は何か。もとより私的な見解であるが、「見る」とは「体読たいどく」すること、すなわち文字に表わされた意味だけでなく、そこに包蔵される本当の意味をくみとることである。換言すれば、「全身全霊」で読むことではないか。

 そこで、本書では「見る」ことの一つの試みとして、「足でよむ」ことにした。つまり『古事記』に登場する聖地・神社を歩いてみた。

 内容は「神話」編と「古代天皇」編とに大別し、「神話」編の第1章では、「高天原たかまのはら」「オノゴロ嶋」「黄泉比良坂よもつひらさか」「天石屋あまのいわや」などを、第2章では、「出雲」「諏訪」「高千穂」などを歩いた。次いで「古代天皇」編の第3章では、「神武じんむ東征の地」「三輪山みわやま」「出雲」などを、第4章では、「ヤマトタケル東征の地」「神功じんぐう皇后ゆかりの地」「雄略ゆうりゃく天皇ゆかりの地」などを探訪した。

 神話に登場する聖地・神社へ一歩一歩と足を進めると、神代で活躍した神々の息吹に触れることができる。古歌に「神代とは遠き昔のことならず、今を神代と知る人ぞ神」とあるように、神代は遠い昔のことでなく、今が神代だということを実感する。

 ちなみに、宣長の学風を慕って国学を志した幕末の国学者で歌人の橘曙覧たちばなのあけみは「あたり、いまも神代ぞ、神無くば、艸木くさきひじ、人もうまれじ」と詠っている。曙覧は目前に生い茂る草木を見て、そこにイザナキ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)の神々を感得し、さらに二神が草木を生んだ神代を見ている。そのような曙覧の視点に私は共感を覚える。

 さらに曙覧は「正月ついたちの日、古事記をとりて」という詞書ことばがきのある「春にあけて、ふみも、天地あめつしの、始めの時と、読みいづるかな」との歌を詠んでいる。いうまでもなく「先づ看る書」とは『古事記』であり、その冒頭の「天地初めておこりし時」と読み始めている。ここに曙覧が『古事記』を「看る」と詠うのは、宣長の『古事記』を「よく見るべし」との教えを忠実に守っている証である。

 ところで、日本人にとって「正月とは何か」といえば、天地開闢かいびゃくの時である。令和五年が行き、令和六年が来るのは事実だが、真実ではない。曙覧のみならず、誰もが、来る年を「新年」という。「令和六年」とはいわない。

 この「神話」編に続く「古代天皇」編では、神武から雄略天皇までの足跡を探訪した。都から遠く離れた僻地に、今も天皇の事跡が語り伝えられており、その心は「神話」編といささかも変わりがない。そのことを私は知り、心底から驚嘆した。

 後述するように、『古事記』は太安万侶おおのやすまろ稗田阿礼ひえだのあれという律令体制下のエリートたちが天皇の命令により撰録したものである。それゆえ彼らにより覆い隠された部分も少なくない。その覆い隠された部分が、都から遠く離れた高千穂や日向、あるいは出雲や諏訪の庶民の中に残存している。

 そのような土地を実際に足で歩いてみると、その土地に伝えられる伝承、例えば民俗・芸能・説話・民謡などの中に、古代の息吹があたかも間歇泉かんけつせんのように噴出しているのに出くわすのである。例えば、室町時代に始まると伝える神楽かぐらの中に、古代が再び現れ出てくることがある。それらは「根生ねおいのもの」であり、時には『古事記』より古いものである。このような考えやものの見方は、歴史が書物のページ数のように順を追って展開してきたものと信じている方々には理解されないであろう。しかしながら、そのような考えだけでは、眼前に古代の神々を感得し、今が神代でないならば、草木も生えないし、人も生まれてこない、と詠っている曙覧の心意はとうてい理解できないと思う。

 さて、『古事記』には「序」がある。そこに天武天皇は諸家に伝わる帝紀ていきおよび旧辞きゅうじに虚偽が加えられていることを嘆かれ、これを正して天皇政治の基礎を固めようとされ、聡明な稗田阿礼にみ習わせなさったと記してある。しかしながら、この時の天皇の発意は完成しなかった。時世が移り変わり、和銅四年(711)九月十八日、元明天皇は太安万侶に「稗田阿礼の誦むところの旧辞を撰録して献上せよ」と仰せられた。安万侶は上古の言葉をどのような文字に表したらよいか、またひとくぎりのなかに、訓と音をどのように用いるかなどの困難があったものの、全三巻として、翌和銅五年(712)正月二十八日に天皇に献上した。

 ところが、「序」は多くの謎を秘めている。登場する稗田阿礼は男性か、女性か、いまだに決着がついていない。また阿礼が「誦み習う」との語の意味も諸説があり、定説をみない。さらに『古事記』を献上した「正五位上勲五等太朝臣太安万侶」も、謎に包まれていた。ただし、安万侶については昭和五十四年(1979)一月二十日、奈良市田原町此瀬このせの茶畑から遺骨と墓誌が発見された。その銘には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と記されており、疑いもなく安万侶の墓誌である。安万侶の生年は不詳だが、この墓誌により卒去しゅっきょは癸亥年(養老七年/723)七月六日であることが確かとなった。ちなみに「養老七年十二月十五日乙巳」は墓を造営した日であろう。

 そうすると、令和五年は、折しも太安万侶が卒去されて千三百年になる。多くの困難を乗り越えて、日本国の宝物である『古事記』全三巻を完成させた安万侶公の御霊に感謝の意をささげたい。そのような心からの思いを込めて本書を刊行した。

 令和に入り、私たちはコロナの猛威にさらされ続けてきたが、ようやく行動制限がとかれ、マスク着用は個人の判断が基本となった。コロナ収束といえるような状況のいま、あらためて『古事記』を読む意義はどこにあるか。

『古事記』にみられる疫病といえば崇神すじん天皇の御代みよが思い出される。この時、人民が死に絶えようとしたのをうれえ嘆いた天皇は、三輪山の大物主大神おおものぬしのおおかみを正しく丁重にまつることにより、疫病はすっかりやみ、国家は平安になった。

 重要なのは、この大物主大神が現在も奈良県桜井市の大神神社にまつられていることである。つまり疫病がすっかりやんだ後も、うまたゆまず疫病の神である大物主大神の祭祀を継続して今に至っていることである。『古事記』に記されているのは、その始源・原型にすぎないが、『古事記』を足で読むことにより、私たちがコロナ収束後をどのように生きるかを実感できるのである。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とのことわざが示すように、人間には忘れやすい性質がある。そこで、コロナで苦しんだ経験を大切にするためにも、あらためて『古事記』を足で読むことを本書から学び取っていただければ幸いである。

 令和五年(2023)七月
三橋 健

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<本書の目次>
第1章 神話を歩くⅠ
 コラム 『古事記』成立年の謎
第2章 神話を歩くⅡ
 コラム 常世国とはどこか
第3章 古代天皇の足跡Ⅰ
 コラム 『古事記』と伊勢神宮の謎
第4章 古代天皇の足跡Ⅱ
 コラム 「天香山」はなぜ低山なのか

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