貪欲に学び、がむしゃらに生きた(漫画家・ヤマザキマリ)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画
17歳でイタリアのフィレンツェに渡り、美術大学で油絵を学び始めた20代の私は、それからどんな目に遭おうと痛くも痒くもないと思えるくらいの苦労をしました。
留学して間もなく、大学で文学と作曲を学ぶ、自称詩人の彼氏ができましたが、彼にとって人生の優先順位はお金よりも芸術と文学。おかげで数カ月おきに住まいを追い出され、11年の滞在中にフィレンツェ市内だけで26回も引っ越しました。
当時は、たくさんの日本人観光客が押し寄せていたバブルの真っ只中。私には貿易の商談やお金持ちの通訳など割のいいアルバイトが回ってきますが、稼ぎは詩人が高いワインや詩集の出版に使ってしまう。昼間はブランド店で「ここからここまで全部頂戴」というレベルの巨額のやりとりに立ち会いながら、家に帰ればガスも水道も電気も止められているような生活でした。
暮らしは貧乏でしたが、当時通っていた文壇のサロンでは本当にたくさんのことを学びました。一生忘れられないほど素晴らしい文学と接し、映画もたくさん、黒澤明や小津安二郎といった日本人監督の作品はイタリア語の吹き替えで観ました。お腹は空いていたし、家のインフラは止まっていても、頭は常に満腹でした。
大きな転機は27歳で妊娠したこと。母性というのは凄まじい。出産直後に詩人と別れる決心がつきました。画家の友人に勧められて描いた初めてのマンガが雑誌に採用され、適応への戸惑いがあった日本へ子供を抱えて思い切って戻った後は、事務職、大学講師、テレビ出演、キュレーターなど自分ができそうなことは何でもやって、働きまくりました。テレビで温泉のリポーターをやっていた時期もありました。イタリアでは浴槽のある家に暮らせず、お風呂に飢えていた私には、もってこいの仕事でした。温泉と浴場文化の素晴らしさは何にも変えられません。その経験が後に『テルマエ・ロマエ』につながったのです。
若いときは精神力も体力があるから、転んでも立ち上がれる。そして、あの頃の苦悩や辛さは余すことなくその後に活きている。人生の苦い側面を20代で体感できたことは本当によかったと思っています。
談話構成=ペリー荻野
絵画、文学、映画……あらゆる芸術文化に接した留学時代
出典:ひととき2022年4月号
よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。