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ゆく河の流れは絶えずして~鴨長明の記した“無常観”がいま注目されるワケ|『超約版 方丈記』(1)

「ゆく河の流れは絶えずして……」の出だしで知られる『方丈記』は、命のはかなさを川面に浮かんでは消えゆくうたかたに喩え、鴨長明かものちょうめい独自の「無常観」を表した作品として知られています。
そんな名作が800年の時を経て、いま再び注目されています。それは令和に入り、コロナ禍で昨日まで元気だった人が今日はあの世へ旅立つ「無常の時代」に直面したからです。
おまけに国内では地震、暴風、豪雨、土石流などの自然災害が頻発し、国外を見れば戦争が勃発。長明が描いた平安末期から鎌倉初期の時代に非常に酷似しているのです。
ここでは、「無常観」について記された有名な箇所の現代語訳を『超約版 方丈記』(ウェッジ刊)から抜粋してお届けします。

超約版 方丈記ウェッジ刊
鴨長明(著),城島明彦(翻訳)

この世は無常、はかない
浮かんでは消える水の泡

~ よどみに浮かぶうたかた

水をたたえて流れている川は、いつ誰が見ても、途切れることはなく、どんどん新しい水と入れ替わり続けている。

水のよどみに浮かぶ泡は、ちょっと見るだけでは気づかないが、じっと見ていると、消えるものもあれば生まれるものもある。

しかも、同じところにじっとしているものは、ひとつもない。

このことは、世の中の人にも住まいにもいえるのだ。

花の都に家々が棟を並べ、軒の高さを競い合う光景には、「珠玉しゅぎょくを敷きつめたように美しい」を意味する「玉敷たましきの」という枕詞まくらことばがよく似合う。

そうなのだ。平安京特有のそのような美しい情景は、時代が移ろうが、ずっと変わることはないと信じられてきた。

だが、果してそうだろうか。私は、この目で確かめてみるまでは信じられないと思い、つぶさに調べてみたことがある。その結果わかったのは、昔からずっと変わらない佇まいを保っている家など、めったにないということだった。たとえば、焼けた家。翌年新築している場合もあれば、豪邸が滅んで貧弱な家に様変わりしている場合だってあるのだ。

そういうことは、家そのものだけに限らない。その家に住む人たちの過去や現在にも、同じことがいえるのである。

昔から同じ場所に住んでいる人が、今ここに二、三十人いるとしても、見覚えのある顔は、せいぜい一人か二人にすぎない。

朝死んでいく命もあれば、その日の夕方に生まれてくる命もある。

とてもはかないことだが、それが人の世の常であり、水の泡によく似ていると感じざるを得ない。

人は生まれ、生き、死んでいくが、どこからやって来て、どこへ去っていくのか。そのことを、私は、いや、誰も知らない。

そしてまた、この世の仮の住まいを誰に気づかい、何のために見栄えよくするのかについても、私はもとより誰もわかってはいないのだ。

無常を競っている家の主人あるじと住まいは、朝顔に宿る露にほかならない。

あるときは、露がこぼれ落ちて花は生き残るが、その花も朝日を浴びているうちに、しおれていく。またあるときは、花がしぼんでも露は消えずにいるが、その露にしても夕方までの命でしかないのである。

作家・城島明彦氏が現代語訳を行った超約版 方丈記(ウェッジ刊)は、ただいま全国主要書店・ネット書店にて好評発売中です。

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<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)
解説

原作者:鴨長明(かものちょうめい)
平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。建暦2(1212)年に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとして名高い。下鴨神社の正禰宜の子として生まれるが、出家して京都郊外の日野に閑居し、『方丈記』を執筆。著作に『無名抄』『発心集』などがある。

訳者:城島明彦(じょうじま あきひこ)
昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。 東宝を経てソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから 『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や 『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』 『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に、『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)がある。


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