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若い旅と円熟の旅 小林武彦(生物学者)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2023年4月号「そして旅へ」より)

 静岡県の三島市に16年住んでいる。

 勤めが東京に変わってからの7年間はここから新幹線で通勤している。そう言うと大体の反応は「えっ?」と驚く。「遠くて大変でしょう。お金もかかるし、なんで?」

 私の返答は「現実」と「夢」の2パターンを用意している。「現実」パターンの返答は「東京がいやになって、また帰ってくるかもしれないので、引っ越す勇気がないのです」と伏し目がちに言う。三島の研究所に勤めていた時よりも東京では「研究・教育以外の仕事」がすごく増えたので。「夢」パターンの返答は、こちらの方が最近は圧倒的に多いが「伊豆の海と箱根・富士山が好き過ぎて、ここからとても離れられないのです」と目を輝かせて言う。これももちろん本当。冬の晴れた日に、西伊豆の小高い丘から駿河湾越しに見える富士山がどれだけ美しいか。春先の箱根の遊歩道の張り詰めた空気が魂を浄化してくれる。夏の伊豆では、水中メガネで海中をのぞけば、カラフルな魚たちの究極の癒しの空間が広がる。自然に溶け込み「一体感」を感じられる場所がたくさんある。ここを離れられない理由である。

 私は「老化」の研究をしている。年を重ねると旅や芸術に対する意識がどう変わるのか考える。若い時には、旅に限らず全てに貪欲である。とにかく有名なものは全てみてやろう、なんでも体験してやろうという感じ。随分前にルーブル美術館に行ったことがある。学会でパリに行き、帰りのシャルル・ド・ゴール空港からのフライトまで4時間ほどあった。移動や空港の混雑を考えても、1時間は余裕がある。ちょっと立ち寄れるところはないかなとマップを見るとホテルのすぐそばに、かの美術館があるではないか。

 ルーブルはご存じ世界最大級の美術館。全部見るのに数日かかる。雰囲気だけでもと、とりあえず飛び込んだ。が、私の考えが甘いことにすぐに気がつく。素晴らしい! 絵画も彫刻もどれをとっても一級品。ざっとでなく可能な限りしっかり見てやろうという欲望に襲われ方針を変えた。そういう時には火事場の馬鹿力ではないが並外れた集中力を発揮する。その時に見た絵画や彫刻を今でもはっきりと覚えている。中でもモナリザと同じ部屋にあったダ・ヴィンチの聖母像が強く印象に残っている。絵画で全身に電気が走ったのは、これが初めてである。これも集中力のおかげか。

 あれから30年近くが経ち、私の観光の仕方も芸術との接し方もかなり変わってきたと思う。若い時には素晴らしいものを自分のものにする。これは物理的に絵を買うとかそういうことではなくて、自分の中に取り込もう、影響を受けようとする傾向が強かった。感動に飢えていると言ってもいい。それが年を重ねたことで、「取り込む」よりも「一体感」や「共生」という言葉が当てはまるようになってきた。絵画の世界観や観光の場合はその土地に前から住んでいたような懐かしい感覚に浸る。感動は時間と共に消えてしまうが、一体感はそれなりに継続し人生を豊かにする。そう考えると、年をとるのも楽しみになる。

文= 小林武彦 イラストレーション=駿高泰子

小林武彦(こばやし・たけひこ)
生物学者。1963年、神奈川県生まれ。東京大学定量生命科学研究所教授。専門は細胞老化と生命の連続性を支える分子メカニズム。著書にベストセラー『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)、『DNAの98%は謎』(講談社ブルーバックス)、『寿命はなぜ決まっているのか』(岩波ジュニア新書)など

出典:ひととき2023年4月号

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