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“こども” 自然な命の力を育てたい|中西進『日本人の忘れもの』

5月5日は「こどもの日」。万葉集研究の第一人者である中西進さんによる2001年刊行のロングセラー日本人の忘れものより、“こども”について綴られたエッセイをお届けします。

日本人の忘れもの
中西進 著(ウェッジ刊)

少年が冒険するのはなぜか

 古い文献を読んでいると、時どき「おやっ」と思うことがある。

 たとえば英雄として有名なヤマトタケル。彼は西に東に、この日本列島を縦横に駆けめぐって賊どもをやっつける。

 ところがタケルはこの時少年である。

 そして活躍する少年はタケルだけではない。勇猛な天皇として知られる雄略ゆうりゃく天皇も、荒あらしい振る舞いが古い歴史書に記されているが、その記事にも「この時、天皇は少年であった」とある。少年とだけいえば、当時の読者はすぐにタケルを連想し、同じように英雄だと考えたらしい。後の時代の桃太郎も坂田さかたの金時きんときも少年である。

 こうなると、少年という枠ぐみは、たんに未熟で粗暴だという認定をこえて、もっと肯定的価値観をもったものだったのではないかと思えてくる。

 長いことそれが頭から離れないままになっていたが、最近、宮崎駿さんのアニメーション映画が大ヒットで、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』が巨大な観客を動員したという。いずれも女の子が主人公の映画である。

 もののけ姫とは、サンとよばれる少女の尊称のようなものだが、「もののけ」の名のとおりふしぎな霊力をもって活躍する。

「千と千尋……」もごくふつうの女の子が千尋で、両親と立ち寄った、トンネルの向こうの廃墟のように見える世界で、さまざまな体験をする。

 両親は目の前の御馳走をつい食べてしまったためにブタにされてしまう。それを拒否した千尋が、千として異常空間の体験をもつ。

 この映画は海外でも高く評価された。そこで宮崎さんが「日本のことを語ったのに海外で評価されたのにおどろいた」とコメントされたように、日本の古代がもっていた普遍性を、子どもに視点をすえることで、世界的に明らかにしたにちがいない。

 古い文献の「少年」が映画の中に生きている。そしてこの「少年」ないし類似の「少年」は、ヨーロッパにもたくさんいる。むしろ日本人より彼らの方が好きなのではないかと思われるぐらいに、冒険物語に登場する。古くは「トムソーヤの冒険」などがそれである。

 そして最近、宮崎作品以上に世界中でよまれている作品が「ハリー・ポッター」シリーズらしい。一時、日本だけで1000万部をこえると聞いた。

 ハリー少年のふしぎな体験は時間も空間もとびこえて、区別をごちゃまぜにして、まことに自由である。

 日本古代の「少年」は荒あらしく兄殺しや逃げる敵を背中から串ざしにするから、トムソーヤやハリー坊やと違うというかもしれないが、タケル物語だって冒険ばなしとして読むこともできる。

 敵を水浴びにさそっては敵と刀をすりかえておいて、さっと上がって相手をやっつけるとか、女に姿をかえて敵に近づいて大将をやっつけるとか、なかなかの知恵者で、はらはらする情況を切り抜ける。

 タケル坊やはハリー坊やになり変わって、いまも生きている。

子どものメルヘンに閉じこめることの無意味さ

 しかし、最近の大受け少年ものを見ていて、とても気になることがある。

『もののけ姫』は、太古日本が深い森におおわれていたころの話だという。しばしば現代文明が失ってしまった物として話題になる、森という限定の中での話だ。

 姫は犬によって育てられたという。これまた有名な話でいえば『南総里見八犬伝』。剣士は犬の霊をうけて成長した者たちである。祖先を犬となのる種族も世界に多い。蒼き狼の子孫、チンギスハーンもそのひとりだ。

 つまり子どもの活躍は、現実世界とは違う条件をあたえてはじめて可能だという考えである。

『千と千尋……』にしても、舞台はトンネルという通路を設定した、現実と区別された世界だ。そして廃墟まがいの町、神まつりの場といったいくつかの非現実空間を設定することで、はじめて現実味をおびてくる舞台に乗せて少女を描く。

 その点はハリー・ポッターも同じで、彼には親を失った子だという設定がある。これまた『少公子しょうこうし』以来の伝統である。

 そして「賢者の石」がでてくる。錬金術つかいが金を作るために手にいれようとした石だ。

 状況設定は中世以来の古めかしさで、そこまで読者に頭の切りかえを願った上で、さて活躍できるのがハリーである。

 こうなると昨今の人気者も、非現実の出来事として子どもの力を語るにすぎない、といえる。するといろんな声がいっせいに聞こえてくる。

そうだろう、そうだろう。これは子どもの話さ。大人はこんな夢みたいな事を考えている暇はない。

そういえばオレも昔はこんな空想にふけったなあ。遠い昔の話だ。

うん、賢者の石があったらいいナ。オレもあくせく働かなくてすむからネ。

 と。結局はメルヘンなのだ。現実は大人の世界。それに対する子どもの非現実のメルヘン世界である。

 これでは従来どおりの、大人が作った枠ぐみの中で、子どもの力を寓話的に語ったにすぎない。子どもの力など子どもだから許せるもので、もう大人になれば、さっさと捨ててくれなければ困るものだ。子どもは未熟だからそんな例え話もおもしろいだろう、という理解になる。少年保護法と、趣旨は変わらない。

 これではどうも、あの古い文献が語りかけてくる「少年」の理解とは少々ちがう。

 私は妙におちつかなかった。

 ところが近ごろ、奈良美智よしともさんの画をみて、おどろいた。

 題材の大半は少女、時として少年である。その顔は、大きくつり上がった目、意志の強そうな口。まるで怒っているような顔である。

 この表情は、まさに「もののけ」といっていい。二人目のもののけ姫の登場という感じを受けた(宮崎さんの「もののけ姫」の命名と、どちらが先かは知らない)。

 しかし、もののけ姫と大きく違うところは、現代のまっただ中に登場していることだ。

 もちろんこちらは画だからストーリーがない。しかしもしストーリーを奈良さんに求めても、これは森の中の話ですとか、トンネルの向こうの世界ですとかは、いうはずがない。じじつ少女の周辺、背景には何もない。ごくふつうの環境だと、納得するしかない。つまり、さきほどから、あれほどこだわってきた非現実世界のことですといった説明はいっさいないから、われわれの通常世界に、このもののけは登場したことになる。

 子どものもののけを、通常世界に認めよ。子ども社会も大人社会同様正常だ、という主張がある。

 おもしろいと思ったのは「Pee -Dead of Night-2001」という題の画だ。この画をみるとだれもがすぐ思い出すのは、例の小便小僧ではないか。

 よく公園や駅などで見かけることがある。いかにもかわいいという感じであろう。だから折おりに、着物をかえて着せてやることもあるらしい。東京の環状線のある駅の小便小僧が、そうだったことを私も見てきた。

 ところが、奈良さんの小便小僧は、まったく別である。メルヘンとは遠い。「わが道を行く」といわんばかりの仕草で小便をし、しかもじっと見入っているという、ふてぶてしさだ。

 ちょっと秘密の話を書こう。とかく今でも話題をまきながら活躍中の作家の、少年時代の逸話である。父親からさんざん叱られた彼は、翌日、父のいない書斎のまん中にウンチをした、という。彼の家庭教師をしていたのが私と同級の男だったものだから、その男から聞いた直話である。

 たとえばそんな話を想像させるのが奈良さんの画だ。

 そこで私はやっと安心する。そうだ。子どもの力を正常の世界で認知しなければ、あの古代日本の「少年」はよみがえらない。

子どもの力を悪徳としてきた大人の思い上がり

 子どもは突飛なことをするし、物をぶち壊してやまない。はたまた、羨ましいことに夢みがちで手に負えない──そう考えると子どもを特別枠にくくってメルヘンとして見ることになるが、そうした、無条件な大人世界の正統性から眺めることを止めるべきではないか。

 ほんとうに、大人の側ばかりに正当性があって、子どもはいつも未熟だったり、破壊的だったりするのか。

 この価値観は大人世界の秩序ばかりが尊重されたものにすぎないのではないか。

 古い文献が評価しようとした──というより神業かみわざに近いものとして畏れさえした「少年」の力とは、自然な命の力だと私は思う。

 ところがこれは、世の中をうまい具合に支配していこうとする大人たちにとっては、不都合だ。

 だからそれを未熟とよび、教育によってりっぱな大人に成長させるためには、一日も早く捨てさせるべきものとされた。この一方的な価値観のなかで、自然な命の力は悪徳となり、その力を去勢された大人が、りっぱな人間として世に迎えられる、といった次第である。

 成長とは、自然な命の力の退化を意味した。

 しかし最近の物理学では、従来無駄なものとされたエントロピーを重視する動きがある。それこそが次へのエネルギーになるという考えである。

 子どもの力の比喩に、このエントロピーはよく当てはまる。

 いま、私はかつての名画とよばれた『禁じられた遊び』を思い出している。

 戦争で孤児となった少女が少年とひそかに、お墓づくりの遊びをする。

 そんなことはとんでもないというのが大人の言い分だから禁じるのだが、しかしこの自然な仕草は、人間が必ず向かう死への習熟として、むしろ自然な成長の一端であろう。ところがそれを大人から一方的に禁じてしまうのが、世の常である。

 大人にとって無駄で不吉な遊びとは、まさにエントロピーだが、このエントロピーのエネルギーが、少女の命をつちかったはずである。

 その行為を禁じ、既定の価値観をおしつけて、子どもがよく成長したと大人が自己満足していても、むしろそれは、正しい命の発育を阻害したことになる。

 もちろん、何が自然なのか、何が命の力なのか、その判定はいろいろとむずかしい。すでに子どもといえども「ゆがみ」をもってしまっていて、自然とはいえない振る舞いも多いだろう。そこから出てくる凶暴な力が、本来の命の力といえないこともある。一つ間違えば少年犯罪のすべてを正当化してしまうことになりかねない。

 しかし一方、あまりにも大人の秩序をはめすぎて、子どもの自然な命の力を抑圧してきたことも、事実である。古代人が神の仕業とさえ感じた力は、十分尊重され、吟味されるべきではないか。

「冒険」の心は大人にとっても力である。新しい何かを創造するためには「冒険」が必要であろう。その力を子どもからまなぶべきではないか。

 日本には「こどもの日」がある。その日は子どもを考え直す日であって、汗水たらして子どもと遊園地へ出かけるだけが能ではない。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。

出典:日本人の忘れもの 2(ウェッジ文庫)

≪目次≫
第1章 営み
わたし  日本人らしい「私」が誤解されている
つとめ  義務や義理にしばられてしまった日本人
こども  自然な命の力を育てたい
もろさ  自然な人間主義を忘れた現代文明
あきない 立ち戻りたい商業の原点
まこと  改革はウソをつかないことから始まる
まごころ 人間、真心が一番である

第2章 自然
みず   水の力も美しさも忘れた現代人
あめ   雨は何を語りかけてきたか
かぜ   風かぜは風ふうとして尊重した日本人
とり   鳥が都会の生活から消えた
おおかみ 「文明」が埋葬した記憶を呼び戻したい
やま   山を忘れて平板になった現代人の生活
はな   日本人はナゼ花見をするか

第3章 生活
いける  花の本願を聞こう
かおり  人間、いいものを嗅ぎわけたい
おちゃ  茶道の中で忘れられた対話の精神
みる   識字率のかげに忘れられたビジュアル文化
たべもの もう一度、「ひらけ、ごまゴマ」
たび   つまみ食い観光の現代旅行事情

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