平清盛の“福原遷都”は人災!元祖ノンフィクションライターによる渾身のルポを読み解く|『超約版 方丈記』(3)
「福原遷都」は人災
旧都では人心が荒廃
~ にはかに都遷り侍りき ~
天下を揺るがす寝耳に水の大事件が都人を驚かせたのは、治承四(1180)年六月頃のことだった。辻風から二週間後、平清盛が平安京を捨て、摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)の福原へ遷都したのだ。
遷都のような重大な出来事が、何の前触れもなく、いきなり行われようとは、誰も予想だにしておらず、都は上を下への大騒ぎになった。
* * *
平家の横暴に業を煮やした以仁王(後白河法皇の皇子)が、源氏の長老で著名歌人の源三位頼政を抱き込んで、「平家を打倒せよ」との令旨(命令文書)を頼朝ら全国の源氏に発した事件が、遷都の引き金となった。
源平は宇治川を挟んで戦い、以仁王や頼政は戦死。平家は勝ったものの、清盛は源氏の復讐に脅え、急遽、都を福原に遷したのだ。
* * *
桓武天皇(第五十代)がこの京を都に定めた経緯は、私もよく知っているが、政情はすぐに安定したわけではない。次の平城天皇(第五十一代)は、奈良に都を戻そうと画策するなど政情不安定で、都が平安京の名にふさわしくなるのは、嵯峨天皇(第五十二代)の代を迎えてからなのだ。
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それからすでに四百余年もの歳月が流れている。
だが、福原への遷都に対する世間の見方は厳しく、これといった特別な理由もないのに、いとも簡単に都を移すのを認める気にはなれないという不満の声が圧倒的だった。
そんなわけで、人々は、寄ると触ると政治のひどさを批判して、うっぷんを晴らしていたのである。その気持ちは、私にもよくわかる。
しかし、人々が遷都に異を唱えた甲斐もなく、安徳天皇(第八十一代)をはじめ、大臣・公卿らは次々と新都福原へ移っていった。
官職についていた人は、誰一人として〝故郷〟とも呼ぶべき平安京に留まろうとしなかった。なかでも、一日も早く新都へ移ろうと、せっせと励んだのは、官位にこだわり、主君の庇護を当てにした連中だった。
一方、時世の判断を誤り、取り残されることになった連中もいた。
そんな連中のなかでも、望みを託すものが何もない者たちは、前途への不安を感じながらも、じっと留まるしか能がなかったのである。
畑になった住宅地
筏にして古材流し
~ 人の住まひ、日を経つゝ荒れゆく ~
あんなにびっしりと密集し、美しく華やいでいた平安京の家並みだったのに、日が経つにつれて、見る影もなく荒れはてていった。
家が次々と取り壊されたのである。解体された木材は、淀川に浮かぶ筏に姿を変え、いずこかへ運ばれていった。
家があった宅地は更地となり、いつしか畑に変わった。
大きく変貌したのは町並みだけではなかった。
人心も世の中もガラッと一変し、武家のみが重視されるようになり、牛車を使う貴族の姿を、とんと見かけなくなったのである。
貴族は、身勝手である。
同じ領地でも、平家の支配下にある西海道(九州)や南海道(紀伊・淡路・四国)の領地はほしがるくせに、源氏の支配下の東国(東海道・東山道)や北国(北陸道)の領地は好まないのだ。
* * *
その頃、私は、たまたま摂津国福原にできた新都へ行く用事があった。
福原は、古くは大輪田泊といわれていた港があるところで、平清盛が改修して中国の宋との交易拠点となっていたので、どんなところなのかと興味津々、期待に胸をふくらませて出かけてみたのだが、初めて目にした福原の第一印象は土地が狭いということだった。
これでは、平安京のような左右対称形の整然とした美しい条里制に区画割りすることは不可能だ、と思った次第である。
新都の北は、山に沿って高くなっていた。
問題は南だった。南は傾斜地になっていたが、海に近く、朝から晩まで波の音がやかましく鳴り響き、潮風がことのほか激しかった。
新しい内裏は、山中にあった。
どんな佇まいだったかというと、その昔、斉明天皇(第三十七代の女帝)が、百済遠征のために、九州の筑前(福岡県北西部)に設営した朝倉宮の丸太造りをほうふつさせるような、何とも風変わりで優雅な趣のある宮殿とでもいうべきか。
ところで、家を壊しては材木で筏を組み、その上に乗って川を下っていく人たちは、一体全体、どこに新しい家を造るつもりなのだろう。
空地は腐るほどあるが、新築の家はとても少ないのだ。
荒れる旧都、未完の新都
不安で浮き足立つ人々
~ みな浮雲の思ひをなせり ~
古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず(原文)――旧都となった平安京には荒涼感が漂っているのに、新都はいまだ完成しておらず、誰も彼もが、まるで浮雲のようなふわふわした不安定な気持ちを払拭できずにいる。
当地でずっと暮らしてきた者たちは、土地を失って落胆し、新しく移ってきた者たちは、家屋を建てる土木工事の煩わしさに音を上げる。
道を歩けば、いつからそうなったのか、牛車に乗るべき身分の人たちが馬にまたがり、貴族の通常着である衣冠・布衣を着用すべき人たちが武士の通常着である直垂を身にまとっている。
都の風俗が急激に変化してしまったから、そんな光景が少しも奇異に映らなくなり、貴族が田舎じみた武士と区別できなくなったのだ。
そうした風潮は世の中が乱れる前兆と説いている書物もあったが、確かに日が経つにつれて、世の中全体が浮き足立って騒然としてきた。
人心もすっかり落ち着きをなくしているところへ、関東では源頼朝が八月に挙兵するなど、とうとう人々が案じていたとおりの物騒な展開となってしまい、同じ年の冬には、安徳天皇も平安京にお戻りになったのである。
そういう動きのなかで、取り壊された家々が元のように復元されることはなかった。
* * *
古代中国の聖人や賢人、いわゆる聖賢たちは、民を思いやる憐れみの気持ちで民を統治したと語り継がれ、幾多の書物にも記されてきた。
たとえば、こんな具合だ。
宮殿の茅葺きのしかた一つとっても、葺きっぱなしにするように指示し、軒をきれいに整えなかったのである。
一見、どうということもない出来事のように思えるかもしれないが、そういうことが庶民の心を打つのだ。
日本にも、そういう言い伝えはたくさんある。
たとえば、仁徳天皇(第十六代)。
仁徳天皇は、民の家の竈から立ち昇る煙が少ないのを見て、民の懐具合を気づかい、救済しようとして年貢を免除したとされている。今の世を評価するには、そうした昔の事例と比べるとよくわかるはずだ。
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