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平清盛の“福原遷都”は人災!元祖ノンフィクションライターによる渾身のルポを読み解く|『超約版 方丈記』(3)

突然ですが、6月2日は何の日かご存知でしょうか?
答えは、1180年に平清盛が「福原遷都」を行った日です。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれましたが、わずか半年で頓挫したこの福原遷都は源氏の結束力を高め、平家の滅亡を早めることになったとも言われています。
この歴史的事件を自らの眼で確かめ、その実状を後世に書き遺した人物がいます。『方丈記』を記した鴨長明かものちょうめいです。
今日はこの「福原遷都」について鴨長明が記したルポの現代語訳を、超約版 方丈記(ウェッジ刊)から特別に抜粋してお届けします。

鴨長明(著),城島明彦(翻訳)

「福原遷都」は人災 
旧都では人心が荒廃

~ にはかに都うつはべりき ~

天下を揺るがす寝耳に水の大事件が都人みやこびとを驚かせたのは、治承四(1180)年六月頃のことだった。辻風から二週間後、平清盛が平安京を捨て、摂津国せっつのくに(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)の福原ふくはらへ遷都したのだ。

遷都のような重大な出来事が、何の前触れもなく、いきなり行われようとは、誰も予想だにしておらず、都は上を下への大騒ぎになった。

* * *

平家の横暴に業を煮やした以仁王もちひとおう(後白河法皇の皇子)が、源氏の長老で著名歌人の源三位げんさんみ頼政よりまさを抱き込んで、「平家を打倒せよ」との令旨りょうじ(命令文書)を頼朝ら全国の源氏に発した事件が、遷都の引き金となった。

源平は宇治川うじがわを挟んで戦い、以仁王や頼政は戦死。平家は勝ったものの、清盛は源氏の復讐に脅え、急遽、都を福原にうつしたのだ。

* * *

桓武かんむ天皇(第五十代)がこの京を都に定めた経緯は、私もよく知っているが、政情はすぐに安定したわけではない。次の平城へいぜい天皇(第五十一代)は、奈良に都を戻そうと画策するなど政情不安定で、都が平安京の名にふさわしくなるのは、嵯峨さが天皇(第五十二代)の代を迎えてからなのだ。

* * *

それからすでに四百余年もの歳月が流れている。

だが、福原への遷都に対する世間の見方は厳しく、これといった特別な理由もないのに、いとも簡単に都を移すのを認める気にはなれないという不満の声が圧倒的だった。

そんなわけで、人々は、寄ると触ると政治のひどさを批判して、うっぷんを晴らしていたのである。その気持ちは、私にもよくわかる。

しかし、人々が遷都に異を唱えた甲斐もなく、安徳あんとく天皇(第八十一代)をはじめ、大臣・公卿らは次々と新都福原へ移っていった。

官職についていた人は、誰一人として〝故郷〟とも呼ぶべき平安京に留まろうとしなかった。なかでも、一日も早く新都へ移ろうと、せっせと励んだのは、官位にこだわり、主君の庇護を当てにした連中だった。

一方、時世の判断を誤り、取り残されることになった連中もいた。

そんな連中のなかでも、望みを託すものが何もない者たちは、前途への不安を感じながらも、じっと留まるしか能がなかったのである。

畑になった住宅地 
いかだにして古材流し

~ 人の住まひ、日を経つゝ荒れゆく ~

あんなにびっしりと密集し、美しく華やいでいた平安京の家並みだったのに、日が経つにつれて、見る影もなく荒れはてていった。

家が次々と取り壊されたのである。解体された木材は、淀川に浮かぶ筏に姿を変え、いずこかへ運ばれていった。

家があった宅地は更地さらちとなり、いつしか畑に変わった。

大きく変貌したのは町並みだけではなかった。

人心も世の中もガラッと一変し、武家のみが重視されるようになり、牛車を使う貴族の姿を、とんと見かけなくなったのである。

貴族は、身勝手である。

同じ領地でも、平家の支配下にある西海道さいかいどう(九州)や南海道なんかいどう(紀伊・淡路・四国)の領地はほしがるくせに、源氏の支配下の東国とうごく(東海道・東山道)や北国ほっこく(北陸道)の領地は好まないのだ。

* * *

その頃、私は、たまたま摂津国福原にできた新都へ行く用事があった。

福原は、古くは大輪田泊おおわだのとまりといわれていた港があるところで、平清盛が改修して中国の宋との交易拠点となっていたので、どんなところなのかと興味津々、期待に胸をふくらませて出かけてみたのだが、初めて目にした福原の第一印象は土地が狭いということだった。

これでは、平安京のような左右対称形の整然とした美しい条里じょうり制に区画割りすることは不可能だ、と思った次第である。

新都の北は、山に沿って高くなっていた。

問題は南だった。南は傾斜地になっていたが、海に近く、朝から晩まで波の音がやかましく鳴り響き、潮風がことのほか激しかった。

新しい内裏は、山中にあった。

どんなたたずまいだったかというと、その昔、斉明さいめい天皇(第三十七代の女帝)が、百済くだら遠征のために、九州の筑前ちくぜん(福岡県北西部)に設営した朝倉宮あさくらのみやの丸太造りをほうふつさせるような、何とも風変わりで優雅なおもむきのある宮殿とでもいうべきか。

ところで、家を壊しては材木で筏を組み、その上に乗って川を下っていく人たちは、一体全体、どこに新しい家を造るつもりなのだろう。

空地は腐るほどあるが、新築の家はとても少ないのだ。

荒れる旧都、未完の新都 
不安で浮き足立つ人々 

~ みな浮雲ふうんの思ひをなせり ~

古京こきょうはすでに荒れて、新都しんとはいまだ成らず(原文)――旧都となった平安京には荒涼感が漂っているのに、新都はいまだ完成しておらず、誰も彼もが、まるで浮雲のようなふわふわした不安定な気持ちを払拭できずにいる。

当地でずっと暮らしてきた者たちは、土地を失って落胆し、新しく移ってきた者たちは、家屋を建てる土木工事の煩わしさに音を上げる。

道を歩けば、いつからそうなったのか、牛車に乗るべき身分の人たちが馬にまたがり、貴族の通常着である衣冠いかん布衣ほいを着用すべき人たちが武士の通常着である直垂ひたたれを身にまとっている。

都の風俗が急激に変化してしまったから、そんな光景が少しも奇異に映らなくなり、貴族が田舎じみた武士と区別できなくなったのだ。

そうした風潮は世の中が乱れる前兆と説いている書物もあったが、確かに日が経つにつれて、世の中全体が浮き足立って騒然としてきた。

人心もすっかり落ち着きをなくしているところへ、関東では源頼朝が八月に挙兵するなど、とうとう人々が案じていたとおりの物騒な展開となってしまい、同じ年の冬には、安徳天皇も平安京にお戻りになったのである。

そういう動きのなかで、取り壊された家々が元のように復元されることはなかった。

* * *

古代中国の聖人や賢人、いわゆる聖賢たちは、民を思いやる憐れみの気持ちで民を統治したと語り継がれ、幾多の書物にも記されてきた。

たとえば、こんな具合だ。

宮殿の茅葺かやぶきのしかた一つとっても、葺きっぱなしにするように指示し、軒をきれいに整えなかったのである。

一見、どうということもない出来事のように思えるかもしれないが、そういうことが庶民の心を打つのだ。

日本にも、そういう言い伝えはたくさんある。

たとえば、仁徳にんとく天皇(第十六代)。

仁徳天皇は、民の家のかまどから立ち昇る煙が少ないのを見て、民の懐具合を気づかい、救済しようとして年貢を免除したとされている。今の世を評価するには、そうした昔の事例と比べるとよくわかるはずだ。

元祖ノンフィクションライターとも言われる鴨長明による渾身のルポ、いかがでしたでしょうか。
「ゆく河の流れは絶えずして…」の出だしで知られる『方丈記』は、命のはかなさを川面に浮かんでは消えゆくうたかたに喩え、鴨長明独自の「無常観」を表した作品として知られています。
そんな名作が800年の時を経て、いま再び注目されています。それは令和に入り、コロナ禍で昨日まで元気だった人が今日はあの世へ旅立つ「無常の時代」に直面したからです。
おまけに国内では地震、暴風、豪雨、土石流などの自然災害が頻発し、国外を見れば戦争が勃発。長明が描いた平安末期から鎌倉初期の時代に非常に酷似しているのです。
不安に苛まれる日本人が多いなか、長明が書き記した不条理な世を生きる極意は、現代でいうところのミニマリストやリモートワーカーにも通じるものがあります。
3年目に入ったコロナ禍を機に、『方丈記』にヒントをもらいながら「人生に本当に必要なものは何か」をじっくり考えてみるのはいかがでしょうか。

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<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)
解説

原作者:鴨長明(かものちょうめい)
平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。建暦2(1212)年に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとして名高い。下鴨神社の正禰宜の子として生まれるが、出家して京都郊外の日野に閑居し、『方丈記』を執筆。著作に『無名抄』『発心集』などがある。

訳者:城島明彦(じょうじま あきひこ)
昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。 東宝を経てソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから 『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や 『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』 『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に、『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)がある。


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