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宮本常一先生が導いてくれた道(民俗学者・神崎宣武)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画

旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画わたしの20代。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺いました。(ひととき2021年8月号より)

 私の生家は代々続く社家でしきたりも多く、それが嫌で東京の美術大学に進みました。20歳になったのは、1964年(昭和39年)。四畳半の安アパートで1カ月分の家賃と同じ値段のテレビを買ったら、友人が入り浸りになって(笑)、一緒に東京オリンピックを観ました。

 舞台美術の道にと漠然と思っていましたが、ある日、大学に民俗学者の宮本常一先生*の研究室ができたと聞いて、ドアをノックしたことが私の人生を変えました。宮本先生は、なんの経験もない私に広島の椋梨(むくなし)ダムの水没地区調査に同行しろと言ったのです。すでに半分くらい移転して廃墟も多い村を歩き、住民の話を聞く。私は写真を撮る他に、先生の後ろで「笑い声と咳以外、言葉を全部カタカナでメモしろ」と命じられました。「カタカナは速記より楽なんじゃ」ということでしたが、大変でした。

*1907~1981年。漁民など非定住の人々や民具等を研究対象とし、日本列島の隅々まで実地調査を行って、膨大な旅の経験を元にした独自の民俗学を拓いた

 その後、先生に「ネパールのチベット人の村へ行ってこんか」と勧められ、就職もせずに、調査チームに加わりました。村人はヤクの背に毛織物などを載せてキャラバンを組んで塩や小麦を得る交易をしていましたが、移動ルートもはっきりしていない時代です。私は斥候役で、イギリスの登山隊で訓練を積んだシェルパと荷物を背負い先行してルートを決める。作物限界を超えた高地の村で越冬したときは、干した蒸し米と唐辛子で作った真っ赤なおかゆばかり。私は深夜、焼き鳥と焚火の〝幻想〟を見て雪原に飛び出し、シェルパに羽交い絞めにされて命を救われたこともありました。

「とにかく歩け。歩かないときは本を読め」「お前がやる民俗学は落穂拾い」と言われ、食うに困る調査費しかないのに、先生はなんでこんなことをさせるのだと思いましたよ。でも、旅をしながら調査をしていると、あちこちで「飯食ってけ」「飲んでけ」「泊まっていけ」と、なんとかなるんだね(笑)。今でも交流の続く人がたくさんいます。私の20代は、宮本先生に言われるままで、自分というものは無かった。それでも多くの人と出会い、書籍を出す機会に恵まれて、今がある。厳しかったけど、徹底的に現地を歩いた椋梨ダム調査が自分の第一歩でよかった。そう思います。

談話構成=ペリー荻野

2108_インタビューD01*

地方で古老から話を聞く旅に明け暮れていた(1976年頃)
神崎宣武(かんざき・のりたけ)
民俗学者、岡山県宇佐八幡神社宮司。21年3月まで旅の文化研究所所長。1944年、岡山県生まれ。武蔵野美術大学在学中から宮本常一に師事し、国内外の民俗調査・研究に従事する。著書に『湿気の日本文化』(日本経済新聞出版社)、『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』(講談社学術文庫)、『旅する神々』(KADOKAWA)ほか多数。

出典:ひととき2021年8月号


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