宮原武熊の元邸宅で不老の夢をみる(台中)|岩澤侑生子の行き当たりばったり台湾旅(5)
台湾鉄道の台中駅近くに「宮原眼科」という煉瓦造りの建物がある。ここは元々、日本統治時代に日本人医師が開業した眼科医院だった。2011年末にパイナップルケーキで有名な日出グループが、しばらく使われていなかったこの建物を店舗に改装した。開放感のある吹き抜けの店内は、まるで絵本の世界に迷い込んだかのようだ。
3日間宿泊した台中から次の目的地に移動する日、たまたま通りかかった「不老夢想125号」という建物の名前に惹かれて、夏の青空に映える白亜の洋館へ吸い込まれた。
偶然にもこの建物が「宮原眼科」の院長である宮原武熊の別宅だったと知った。入口付近にこの建物の由来と宮原医師の紹介が書かれていたので、以下に要約してみる。
宮原武熊は1874年に眼科医の父、勇輔の四男として鹿児島県川辺郡知覧村(現:鹿児島県南九州市)に生まれた。1901年に東京帝国大学医科大学選科を卒業後、ミュンヘン大学で医学博士の学位を取得。沖縄、鹿児島、東京での開業を経て、1924年に医学会議に出席するため台湾を初めて訪れた。このとき、宮原医師は50歳。翌年、台湾総督府台南医院眼科部長に就任。一度日本に帰国したのち、1927年に現在の場所に眼科医院を開設、1933年に別邸を建設した。
宮原は医療だけではなく、政治、産業、教育の方面でも活躍した。この別邸を建てた1933年に台湾人同志らと東亞共栄協会*を成立し、評議員を務め、台中州会議員としても活躍。戦争末期には台中商業専修学校(現:台中市私立新民高級中学)の校長も務めた。終戦後、林献堂**らは、73歳と高齢になっていた宮原とその家族を「善良な日本人」と呼び、国民党政府に台湾に留まらせるよう呼びかけた。しかし、宮原医師は1946年に帰国の途に就く。その後の日本での消息は分かっていない。
宮原医師の帰国後、宮原別邸は台中市政府に接収され、台中市市長の公館や職員の宿舎として使われた。2016年にシルバー世代の就労やボランティア活動をサポートする団体がこの建物の運営権を獲得し、「不老夢想125号」が誕生した。1階はショップとカフェ、2階と中庭はこの建物についての展示スペースになっている。併設されている平屋部分には「不老食光」という名前のレストランがある。ちょうどお昼時だったのでここで食事をとることにした。
「歓迎光臨!(いらっしゃいませ!)」と笑顔で迎えてくれたのは、麦わら帽子と緑のエプロンを身に付けた阿媽*だ。
小上がりになっている畳の席へ案内される。店内を見まわし写真を撮ったりしていると、「古い建物だと分かるように、あそこの壁はわざと機構が見えるようにしています」と教えてくれたり、「お水いりますか?」とこまめに声をかけてくれる。メニューを見ながら迷っていると「台湾の家庭料理が味わえますよ」と勧められたので、少し奮発して定食セットを注文する。
不老食光レストランには、平均年齢64歳のシルバー世代の方々が雇用されており、みんな元気そうに働いている。
最近、書類に自分の年齢を書くときに「え、もうこんなに生きてきたの?」とびっくりする。年齢を重ねる度に、生きる時間には限りがあることを実感する。時間は何もしなくても水のように流れていくし、身体は自然の摂理に基づいて老いていく。それを、少し恐ろしいことだと感じ始めていた。
でも、ここで働く阿媽たちは、とても若々しく見える。それは、社会との繋がりを持ち続けているからではないだろうか。人は自分以外の何かと繋がっているときに、生きる意味や喜びを感じることができる。たとえ身体が老いても、働く楽しさや生きがいを持っている人の精神は老いない。
宮原医師は50歳を過ぎてから台湾に移り住み、新しい土地で眼科医院を開業した。彼は医療現場だけではなく、多岐に渡る分野で活躍し、多くの台湾人と繋がりを持ち、その人徳を惜しまれた。そんな彼が残した建物は今も「不老の夢」を叶えている。私も不老を夢見て一日一日を大切に生きたいと思った。
色鮮やかな定食を目の前にするとお腹がぎゅるぎゅる動き出す。まだまだ若いぞ私の身体、なんて思いながらお箸に手を伸ばすと、スマホの画面が光った。
「こんにちは!今日来るんだよね?いまどこ?」
今日の宿泊先を手配してくれた台湾人の女の子だ。その子とは最近台北で知り合ったばかり。初対面にもかかわらず、「夏の間は恋人の家族が経営している旅館に滞在するので、よかったら遊びにおいで」と誘われた。台湾ではお互いのことをよく知らなくても、気軽に誘われることが多い。フレンドリーで、人と人との距離が縮まるのが早い。新しい出会いに気持ちが弾む。
「いま台中。これからご飯を食べてからバスで行くよ」
そう返信すると、別の友人から「今日行くと聞いていた場所、交通が不便だけど大丈夫?」とDMが届いていることに気づく。今日の目的地は嘉義県の奮起湖だ。台中駅から台湾鉄道で嘉義駅まで行き、バスに乗り換える。お昼過ぎに出たら夕方にはたどり着けるだろうと思い、のんびりしていた。すぐに返事がきた。
「まだ台中?最終バスの時間に気をつけて!」
不安になってルートを検索する。時刻は午後1時を過ぎたばかり。いくらなんでもこんな時間に交通手段が無くなってしまうことはないだろう、きっと何かしら行く方法はあるはずだ。もしもたどり着けなかったら、今晩泊まる宿が無い。ソワソワしながら画面をスクロールすると、嫌な予感は的中した。今日奮起湖へ向かう最後のバスは、たったいま嘉義駅を出発したところだった。
スタッフの方がデザートのアイスキャンディと引き換える札を持ってきてくれた。デザートを楽しむ心の余裕はなく、必死にスマホで交通手段を検索する。果たして無事に奮起湖へ辿り着くことはできるのか。皆さん、旅行はくれぐれも計画的に。
文・写真=岩澤侑生子
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