【緊急寄稿】地震後のトルコから|イスタンブル便り
その時、わたしは東京からイスタンブルへ帰る飛行機の中にいた。
あとから計算してみると、ちょうどトルコ上空に差し掛かった頃ではないかと思う。朝6時25分に着陸して、パオロ騎士の迎えの車に乗り込み、自宅に着いて荷物を運び込んでいた時、電話が鳴った。
友人の風刺漫画家、ベヒッチだった。すぐにニュース検索すると、トルコ南東部のカフラマンマラシュ付近が震源、マグニチュード7.8の巨大地震とわかった。だが、当然ながら被害状況はすぐにはわからない。朝9時半ごろの時点で報道されていた死者数は、850人くらいだった。
この程度で済むはずがない。とっさに、建築学生たちのことが頭に浮かんだ。地震で人を守る建築、建築に携わる者の職業的責任を、伝えなければならない。翌日から始まる新学期で最初の講義は、それをテーマにしようと思った。
覚えがある。1999年8月、マルマラ海を襲った地震。マグニチュード7.6、死者数は約1万7千から8千とされる。その時イスタンブルで学生だったわたしは、数ヶ月後、神戸の建築家協会からやって来た建築家、専門家のグループのためにボランティアで通訳をした。トルコ建築家協会がホストとなり、ブルサ、アンカラ、イズミル、イスタンブルの四都市でブリーフィングが行われ、多くの専門家が参加した。
その時に身に沁みて学んだ。人を死に至らしめるのは、地震ではない。壊れた建築である。マルマラ海地震の場合、建築法規の遵守について専門家のあいだで激烈な議論が交わされた。わたし自身は建築家ではないが、建築学部で教鞭をとることになった時から、その話は折に触れて、必ず取り上げて来た。
* * *
ぽつぽつと、日本や海外にいる友人たちから、安否確認のメッセージが届き始める。イスタンブルは、震源から約1100km離れている。その距離を知っているオランダの娘からも、大丈夫?とメッセージが来た。
イスタンブル工科大学には、トルコ全土から学生が集まっている。受け持ちクラスの学生の安否確認から始めた。論文指導をしている自分のゼミにも、被災都市のひとつ、アダナ出身の学生がいる。すぐに返事が来た。彼女はイスタンブルにいた。新学期が始まるので、つい昨日、イスタンブルに帰って来たのだという。
ご家族は、と問うと、自宅の隣の建物が全壊、自宅の建物も半壊で、親戚の家に一時的に避難しているそうだ。なんという間一髪。しかし家族から離れて、自分一人だけ安全なイスタンブルにいる、というのも、いたたまれないことだろう。
地震が発生したのは現地時間2月6日未明。イスタンブル工科大学は前日の月曜日から、ちょうど新学期だった。その時はまだ、まさかイスタンブルで大学が休講になるなど予想できなかった。偶然だが、前日の新学期初日、吹雪で全講義オンラインとなった。火曜日もオンラインでしょうか、と問う学生に、大学側から正式発表がないかぎりは、対面で授業をします、と返答したりしていた。
イスタンブル工科大学の対応は早かった。地震発生の朝11時、全学に一斉メールで、地震対策本部設置、緊急用連絡先が周知された。正午以降、救援物資の募集が呼びかけられた。最初は毛布、冬物衣料、衛生用品、玩具の4項目。そして最初の地震発生から約9時間後の午後1時半過ぎ、2度目の地震が襲った。マグニチュード7.5という巨大さだった。
同日夕刻、「デマ防止とメディア対応」として、メディア取材を受ける場合はイスタンブル工科大学総長棟の事務所を通すように、との通達が来た。専門家を多く擁する工科大学ならではである。そしてその晩9時。週末までの休講が宣言された。
* * *
発生後、数日のうちにどんどん被害状況が明らかになり、未曾有の大災害であることが判明した今回のトルコ南東部地震。その日のうちに7日間の国喪が宣言され、大学新学期は一時無期延期の後、結局二週間の延期となった。
地震発生から4日後の2月10日、所属するイスタンブル工科大学建築学部の全体会議があった。教員だけで200人近くの大所帯だ。タシュクシュラ校舎の109番講堂にほぼ全員が集まった。
学科の同僚同士で連絡を取り合ったりはしていたが、全員が対面で集まると、なんとなくほっとする。大学からの一斉メールの通達だけでは満たされなかった共感が、ここでようやく共有できた気がしたのだ。
学部長の説明によれば、イスタンブル工科大学では、初動は人命救助や救急医療、必需品の供給に従事していた。大学所有のバスやトラックに救援物資を積んで現地入りし、避難する人を乗せて帰ってくるピストン輸送である。わたしが所属する建築学部では、同時に被災地域に住所のある学生全員の安否確認が行われた。
その上で、工科大学という性格上、地震発生から日を置かずして、専門家を組織し始めた。地質学者、建設技術者、構造技術者、都市計画の専門家などからなるチームを組織し、被害を受けた都市の公共建築物を中心に、安全を確認し、問題なければすぐに使用に供するためだ。人々は恐怖感から、建物の中で眠りたがらないという。
派遣される専門家は、50歳以下の男性が募集され、1チーム1クール3~4日滞在し、次のチームが入れ替わるという体制である。建築学部校舎タシュクシュラの最上階屋根裏階にスタジオが設けられ、ボランティアで参加したい人は、学生に限らず建築関係者なら外部からでも参加可能、遠隔でも参加可能で、確認済みの建物をマッピングする作業が始まったそうだ。
新学期がペンディングされた学生たちは、直接の被害を受けた人は別として、現地にボランティアとして入ることを希望する人も多くいるらしい。マッピング作業は、遠隔でもできるし、授業もなく心が塞ぐので学校へ来て何かできることをする、という意味で、心のケアにも役立っているようである。わたしのところにも、少数だが、遠隔でもできることがあれば知らせて欲しいという希望が日本の友人たちから届いた。
そういえば、 東京消防庁からのいち早い支援隊出陣式のニュース映像が、日本好きなトルコ人学生のグループからわたしのところに届いた。こんな状況にあって、トルコの人々は、地震国日本からの支援を、嬉しく心強く思ってくれている。その心遣いが大変嬉しかった。
被害を受けた都市のなかで、アドヤマン、カフラマンマラシュ、ハタイの三都市で大学の被害が大きく、特にアドヤマンでは 「アドヤマン大学というもの自体が消滅した」というほどの状態だそうだ。高等教育局が一時新学期を無期延期としたのは、そのような背景があるらしい。つまり、まだ宣言されていないが、これら大学のなくなった学生たちを、数週間か数ヶ月かは不明だが、トルコ国内で振り分けて受け入れる必要が生じるだろうからだ。
そして、中・長期的展望として、現在家を失った人々に一時的に学生寮やゲストハウスが提供されているが、それらの学生が来ることを想定すると、イスタンブルでも他の都市でも、急激な住宅難が予想される。
ここ20年ほどの間に、地方都市や村でも建設ラッシュが起こり、伝統的な平屋の家屋から高層の集合住宅に大半の人口が移行してしまったことも大きいようだ。トルコ人の同僚でさえも「南東部は田舎だからそれほど被害はないと思っていたらこれほどまでに高層集合住宅化していたとは。あんなに広い土地がある地方なのに」と驚いていた。
今回の被災地は、メソポタミア文明揺籃の地であり、ユネスコ世界遺産を含む多くの文化財を擁する。修復学科の教授陣からは、瓦礫撤去の際に、できれば文化財の破片には注意するように、他のものと区別して取り扱う必要が指摘された。将来的に専門家が分類して作業できるようにするためだ。また、瓦礫処理の環境問題、瓦礫のアスベスト問題、復興計画が、その場しのぎのものにならないように、新たに建設される都市が、環境に配慮したサステナブル都市となるように、具体的提案の必要が議論された。
一方で、勉学を続けたい被災学生には、緊急に奨学金が必要である。イスタンブル工科大学同窓会教育財団では、トルコリラ、ユーロ、ドルの3口座で募集が開始された。(*1)
この会議の最後に、わたしは発言を求めた。日本のみなさまからわたしのところに個人的に寄せられていた追悼とお見舞いをトルコの方々にお伝えし、地震国日本の専門家の協力が必要な場合はお繋ぎしますのでどうぞお声かけください、とひとこと申し述べた。話し終わると、隣に座っていたマッピングプロジェクトのリーダー、エダー先生、そして周りの先生方が、真剣な顔で、力強くうなずいてくれた。
* * *
「ねえ、大丈夫?」
出口のところで、博士課程の同級生で現在は同僚教員のデニズと出くわした。
「ご家族とか、・・・いた? 繋がりのある人」
「直接はいないけれどね、知り合いには家族を亡くした人とか、いるよね」
「そうね、わたしもそう。これだけ大きくなると、みんなそうだよね」
「眠れないの、朝の4時までテレビを見てしまって」
そういうデニズは、目の下に黒く隈ができていた。
「あんまり見すぎるの、よくないよ。一人一人の人生を想像してしまって、たまらくなるでしょう」
「わたしが見てないと、助けられている人が、死んでしまうような気がして、やめられなくなるの」
思わず肩を抱いた。
直接被災していなくとも、みんなが心に傷を抱えている。それを抱えながら、それぞれが自分の持ち場で、自分の仕事をすること。思いもよらない反響がおさまるまで、数年がかり、数十年がかりになるだろう、それでも。専門家として貢献できることのありがたみを痛切に感じながら、粛々と過ごす日々である。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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