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千葉に存在したアメリカ,A円とB円

この写真を見ると特徴のない岩とそこそこ綺麗な海🏖
そんな感想を持つのではないでしょうか?🤔
この岩はある原因で隆起した2000万年前に作られた堆積岩地層だそう.磯ではこのような岩が大量に散見されます👀サンゴや縄文時代の遺跡もあるらしい.

灼熱の太陽が肌を焼く2019年8月10日に神奈川の南東部である久里浜からフェリーに乗り(往復1320円)千葉県の金谷港に行きました🛳
車も乗るような大きな船で,退屈することもなく40分程で房総半島に着きます.

金谷の人には悪いのですが,アシが徒歩しかない状態で金谷だけで夕暮れまで楽しむのは厳しいので内房線に乗り南下してほぼ房総の南端の館山まで行きました.

館山駅は関東駅百選に選ばれているのも納得の情緒ある駅で西口からは夕映え通りという道が海まで一直線に続いており🌴南国ムードを醸し出しています🌇

元々沖ノ島に行きたかったので,駅にいた地元の部活帰りっぽい中学生に沖ノ島への行き方を聞いたところバスなどはないというので取り敢えず歩きました.

…が。実際は5km弱ある上に炎天下.とても歩けた距離ではないので【“渚の駅”たてやま】さんで休む事にしました.途中、先ほど声をかけた中学生の学校であろう中学校があり,此方は歩くだけでぶっ倒れそうなのに野球部がキツそうな練習をしていました.自分も中学時代は球児だったとは言え長袖長ズボン…信じられない.

幸運な事に渚の駅で電動自転車を500円で夕暮れまで借りれるとの事だったのでそれに乗って【漁師料理たてやま】さんで海鮮丼を食べました🐟様々な新鮮な魚介が乗っており,とても美味しかったです😊

機動力を得た私は沖ノ島までチャリを走らせました🚴‍♂️電動チャリってめちゃ楽なんですね,そりゃ近所のおばちゃんも坂登るわ🧓🏻

途中埋立地っぽい場所を経由して島に行き,夕暮れも迫ってきたので沖ノ島を軽く一周散策して撤退したのですが帰って机上調査したら島には色々な歴史があった.

国土地理院の画像を見ていただくと分かるのですが

明治36年時点では沖ノ島はその名の通り“沖”に在り,

現在のように陸側から徒歩でアプローチが出来ません.そしてその東側には高ノ嶋(鷹ノ島)という孤島がありました.

次に昭和19年の地図では埋立地が形成され,鷹ノ島がその一部に取り込まれている事が分かります.

そして昭和56年の地図を見てみると埋立地から沖ノ島まで砂場が形成され陸続き島になっている事が確認できます.

現在では砂州が発達し,海水浴場になっていて海にいると必ずいる日焼けした若者集団や家族連れやカップルなどで賑わっていました.

なぜこうなったか?明治36年から昭和19年(1905-1944)の間に何があったのかというと1923年(大正12年)の関東大震災を引き起こした関東地震です,この地震は沖ノ島周辺での地殻変動を誘発し,2m近くの隆起が起きたらしい.
地殻変動によって太古の地層が隆起しており島にて見ることができる.
さきほどの地図中央下部の山の標高も2m高くなっている.

隆起した地層の一例↓

隆起した土地を埋め立てて海軍の基地にしたそうです,現在も自衛隊の基地になっております.

基地内だけでなく沖ノ島の入り口あたりに水産実験場の跡…というか廃墟があり中に入ると落書きだらけで不気味ですがニャンコが住み着いており,癒されます🐈

先の大戦時,館山の基地は帝都東京を海からの脅威から守る為に指定された東京湾要塞の1つでした.終戦後厚木飛行場と共に米軍の進駐の第一波に選ばれた事により,

米軍によって1945年9月3日から四日間だけ館山は日本で唯一軍政が敷かれた地域でした(占領下の沖縄や奄美を除く)

なんでも日本円を廃してB円というのを使ったり,公用語を英語にしようとしたらしい(結局この案は白紙になったがB円は占領下の沖縄などで実際に使われた)ちなみにA円もあり南朝鮮:現韓国や八重山諸島の一部で使われたりしたらしい,A円は1950年に韓国銀行がウォンを発行し役目を終えている.

四日間の軍政で実際に行われた事は午後7時から午前5時までの外出禁止の他,司法や娯楽などにも制限を設けた.館山市からの陳情もあり9月7日になり軍政は一応終わった.詳しくは三布告で検索.

館山市民は地理的要因と海軍のベースがあったが為に犠牲になった.現代でも自衛隊や米軍基地と地域住民の関係は何かと物議を醸す,切っても切れないモノだと思うが,地域住民に罪は無いのだ.

そういえば夕暮れの館山湾は太陽がキラキラ反射して本当に綺麗でした.

館山湾は“鏡ヶ浦”と呼ばれることもあるみたいです,なるほど納得.

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