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210 swing shake rock 揺れる話

『センスの哲学』(千葉雅也著)を読み終えた

 『センスの哲学』(千葉雅也著)を読み終えた。スムーズに読めてしまった。こういう快楽は久しぶりだ。センスについて著者独自の観点から読み解いていく。リズムの話が多く、それは生物としての生きる上でのリズムと共鳴している。だから、AIの生成物と人間の生み出したもの(絵画、音楽、小説)には大きな違いが生じるはずだ。とはいえ、AIがぜんぜんダメかといえばそんなことはなく、リズムは模倣できるから、それなりのものを創り出すことは間違いない。
 私はいろいろな音楽を聴くが、音楽には「揺れ」を表す言葉が多い。swing(スイング)は、大きなゆったりとした揺れだ。shake(シェイク)は小刻みで細かな揺れだ。rock(ロック)は、どっしりとした激しい揺れだ。
 リズムを耳にして、自然に体が反応したとき、私たちは揺れるのである。
 とくに音楽に関しては、踊りがリズムを体現する。大河ドラマ「光る君へ」では、琵琶を鳴らし、舞う世界がある。あのゆったりした踊りは、雨だれのように、あるいは吹き下ろす風のように奏でられる音楽の、まるでリズミカルではないけれど、自然に近いゆったりとしたリズムと合っている。
 ダンスはリズムを体で表す。現代のダンスはとても複雑で、とても一緒に踊れるようなものではない。踊りの上手さは、体から湧き上がるリズムを表現できることだろうし、それが結果的に美しさへとつながる。その根本は、揺れなのだ。

体が揺れると心も揺れる

 音楽とダンスはお互いに刺激しあってリズムを生み出してきた。優雅な社交ダンス、誰でも体を動かして参加できるディスコ、さらにいわゆる縦ノリのロックと、体の揺らし方はさまざまだが、音楽に合わせて(合っていない人もいるけれど)、体を揺らすことは「生きている!」実感につながる。音楽を聴きながら、「じっとしてろ」と言われるのは、理不尽な話だろう。
 たとえばクラシック音楽のように、多様なリズムを盛り込んだ世界だと、ただ体を揺らすだけでは表現しにくい。バレエは高度な身体能力を持つ者だけに許される複雑なダンスである。あるいは、指揮者のような動き。これなら素人でも少しはやれる。
 昔、1980年代の日本には、ジャズ喫茶と名曲喫茶があった。私はどっちにも行く派だ。それでいてジャズは好きなのだがジャズ喫茶は苦手だった。ゴリゴリのファンたちに支配されたその修業僧のような世界は、正直、ジャズの本来の楽しみからは大きく逸脱していたと思う。名曲喫茶も、同様に「しゃべるな!」といった戒律の中に身を置くことになるが、クラシック音楽の場合はそれほど叫びたくなるようなことはないので、まだしもだった。そして、必ず指揮をするように手を動かして聴いている客がいた。それを見ているのも楽しかった。
 1980年代から90年代にかけて野外のいまで言うフェスによく参加した。主にジャズだ。日比谷野音、読売ランド、横浜球場、広島のチチヤスハイパーク(いまのちゅーピーパーク)などでジャズを聴いた。そこでは自由に揺れてもいい世界があって、その解放感はとても楽しいものだった。いまもフェスは多いのだが、その気持ちはわかる。私はもう、そういう場に行きたいとは思わないけれど、きっと楽しいに違いない。
 いまはSpotifyで音楽を流しながら、キーボード(PCのだ)を十本の指でタカタカとこうして叩きながら心を揺らしている。

描きかけ。あまり進展せず。



 

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