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295 私の時間

引きこもれ!と叫ぶ人

「引きこもれ! 徹底して引きこもることこそ、この歪んだ資本主義を正すための第一歩なのです」
 急にトーンを高くしたT氏に、私はたじろぐ。
 いま当時の音源を再生していても、やっぱり私はたじろぐ。それぐらい鬼気迫るものがった。
 T氏はある時期、テレビや雑誌にひっぱりだこの経済評論家で、たまには「国際経済評論家」と「国際」をつけたりしていた。だから久しぶりに取材で会ったときに「国際経済評論家」と書かれた名刺を渡されて、少し驚いてもいた。この数年、深夜の討論番組にも出なくなり、風のウワサでは彼のボスに逆らったから干されたとも聞いていた。
 当人にはやや髪を乱雑に放置しているほかは、私の記憶にあるT氏の風貌だったので、写真も一枚撮らせてもらったはずだ。その写真は手元にもうない。あるかもしれないけれど、探し出せない。
 あるいは、記憶から消し去りたくて、探せないのかもしれない。
 彼の書斎は、いかにも経済に詳しい人らしい本が並んでいるものの、歴史小説が圧倒的に多かった。また「架空戦記もの」も多く並んでいて、ちょっとばかり私の心はざわついた。
 為替についての雑感をまとめるだけなので、取材は三十分ほどで終わってしまった。コメントとして電話取材でもよかったのだが、私には書籍企画について意見をうかがいたい件も秘かにあったので、都心のホテルで会おうと言ったのだが、急遽、彼の自宅へ行くことになってしまった。
「ちょっと取りかかっている原稿があってね」と彼は言ったので、神奈川県にある自宅へ伺った。しかし、書斎にそれらしい雰囲気はなかった。なにかを執筆している様子はない。私が来るから片付けたのだろうか。
 これまでいろいろな人に取材しているが、仕事中に時間を割いてもらうときは、たいがい、相手は猛烈に忙しい。その合間に話を伺う。移動のタクシーの中で資料を広げて話を聞いたこともあった。
 戦後まもなく建てられたであろう平屋ながらも土地が広いので、そこそこの部屋数のありそうなお宅は、深閑としていた。もぬけの殻。そんな言葉が浮かぶ。家族はどうしたのか。彼だけなのか。お茶も彼が冷蔵庫からペットボトルで出してくれた。恐縮する。手土産は持って行かなかった。そういう関係性ではない、と私は考えていたし、本当にわずかな話さえしてもらえればよかったのだ。

なぜ抵抗しないのか!

 ジャケットの襟に白くフケが落ちていた。油っこい彼の髪は、年相応に薄くなっていて白髪も多い。ただ、老人と言うにはまだ現役な印象だった。
 私は書籍の件は諦めて、帰るつもりだった。
「なぜ抵抗しないのか!」と彼は語気を強める。「確かに政治家たちは、政策を変えたいなら一票を投じろ、選挙で決着をつけろ、と主張する。だが、それでは変わらない。そのことを一番よく知っているのが政治家だ。それなのに大衆には選挙に行け、投票しろ、としか言わない。気に入らない政治家はどんどん落とせばいい、と評論家も言う。だけど、政策を変えたいのなら、抵抗するしかない。誰もそのことは指摘しない」
 詳しく聞きたいわけではなかったが思わず「引きこもると抵抗になるのですか?」と水を向けてしまった。
「なるでしょう。経済活動を拒絶するんだから。経済は回してなんぼの世界。その回転から多くの人たちが外れていけば、空回りする。そして自滅する。そうなれば政策を変えざるを得ない」
 と彼は、なにか書物を持ってきて「これは古いドイツの学者の本だが、すでにそのことが指摘されている。つまり資本主義の欠点は最初からわかっていた」と言う。
 そのことを詳しく聞く気力がこちらにはない。思わず失礼ながらも腕時計を見てしまい、帰りの時間が迫っていることを知らせる。
 録音をそこで停めて、「ありがとうございました」と告げた。
(つづく?)

だいぶ白い空間が狭くなってきた。



 

 

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