見出し画像

28 救済の罠 刺激の罠

『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)を読んでいる

 このところ、『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)を読んでいる。まだ3章を終えたところで、全6勝だから、中盤といったところか。
 気になったのは、この部分である。
「しばしば心を病んだ人たちは、とんでもなく見当外れだったり馬鹿げたところに救済を見出してひと息吐こうとしているケースが多い」
 よく考えればなにか変なところに、やたらと執着しのめり込んでいく。
 だが、考えて見れば、心を病んでいない(と思われている)人でも、妙なところに救いを求めることはあるだろう。最近の言葉でいえば「性癖」もそのひとつだろうし、「推し」もそんな側面があるだろう。そもそも「アイドル」は偶像の意味を持っていたが、日本では芸能分野で使われるようになって独特の意味付けをされていった言葉だ。そして偶像は、崇拝の対象となる像(姿)のことである。
 不安をそのまま抱えていると、食事も喉を通らない。だから、その不安を和らげることができれば、偶像やなんらかの儀式や行動に救いを求める。解消はできないけど、その間は不安を忘れていられる。
 昨日、自殺幇助罪で起訴された歌舞伎俳優・市川猿之助の初公判が開かれた。罪を認めていることもあって即日結審で、次は判決の言い渡しとなる。
 このケースは特別な救いはない。あるいは死に救いを求めたとも言える。終わらせようというこだろう。
 両親にうどんを食べさせて、水で薬物を与えて意識を失ったのを見届けてから、被告は手紙を書くなど、次は自分の死に備えたという。
 行動を起こしてしまったあとに、本当にそこに救いがあるのかと誰だって迷うはずで、いくら決意は固くても、きっと迷ったに違いないと思いたい。
 無理心中ではしばしば、言い出した人が生き残る。その強い意志は他の人の死に向けられ、恐らくその段階である程度、解消されてしまうのではないかと私は思う。

救済と刺激

 人というのは身勝手なもので、「刺激が欲しい」と行動することもあれば、「穏やかでいたい」と刺激を避けたいときもある。刺激が欲しい人にとっては、ゲームやスポーツ、体を動かしたり旅行することは、一種の救済となる。「そういうことのできる自分っていいな」というわけだ。また「穏やか」を求める人にとっては、話を聞いてくれる人、静かな場所、閉じこもれる空間が救いとなる。
 先日、映画『スマイル』を見た。ホラー映画である。パーカー・フィン監督・脚本。主演がソシー・ベーコン。この女優は、ケヴィン・ベーコンとキーラ・セジウィックの間に生まれた子で、映像を眺めていて、いろいろとケヴィン・ベーコンを思い出してしまうのであるが……。
 この映画は、主人公が精神科医なのだが、彼女自身、子どもの頃に起きた事件(アル中の母を見殺しにする)のせいもあって、目の前で笑いながら自殺する女性患者によって、おかしくなっていく。ホラーとして素晴らしかったのは、幽霊や化け物をほとんど出すことなく進む中盤ぐらいまで。結局、最後にはこの世のものではないものが登場してしまい、私としては「あー」と思ってしまうわけだが(アメリカの映画館で見たらいろいろな意味で観客たちが大騒ぎするシーンなのだろうけど)、全体としては楽しめた。
 このドラマでは主人公に訪れる救いは、例によって悪霊が見せたかあるいは自分で産みだしたかした幻影なのであるが、もちろんそれは裏切られる。
 いろいろなドラマや事件が、「救済は裏切りのはじまり」と表現することが多いので、余計に、「救われますよ」と言われたら警戒してしまう。
 一方、刺激にのめり込んで忘れる場合も、いつか裏切られる。「裏切るなよ」と祈りながらも、どこか裏切られて「やっぱりな」と言いたい気持ちもあるかもしれない。

自分で作る罠

 我が家には犬がいる。シー・ズーで今年7歳になった。中年である。これで3匹目になる。最初のシー・ズーは17歳ちょっと生きて老衰で亡くなった。終盤は介護状態となったのだが、高齢の犬はとにかく可愛いのである。そこで亡くなってしまうとポッカリと穴が開いて、それまでの制約がなくなった自由を夫婦で楽しんでいたのだが、徐々に虚しさが大きくなる。いわゆるペットロスだ。
 いつしか保護活動をしている団体の「譲渡会」を行き回るようになるのだが、そこで夫婦して亡くなった犬の面影を探している。「色が似ている」とか「しぐさが似ている」とか。しかし、それではいけないと自分たちで言って、似ていない犬を発見する。だがシー・ズーではある。しかも年齢不詳の高齢犬で、繁殖用にたくさんの子犬を産まされていた。だから散歩もろくにできない。どこに疾患が潜んでいるかわからない。
 しかしその子は私たち夫婦にとって救いとなった。わずか3年で突然死してしまう(肺動脈乖離)。救いだったのに。
 だから次はもう、普通に保護犬たちを探しはじめた。「もうやめよう」と2人で話し合うこともあったのだが、どう考えても犬が必要だった。そこに懇意にしている保護団体から「巨大食道症で余命いくばくもない小犬」の話が来る。「これだ!」と手を挙げたら、幸運にも迎え入れることができた。
 偶然かなにかわからないが、それから7年である。生き延びたのである。この間、愛犬によって、刺激的な日々を過ごしてきた。癒されて、夢中になり、楽しんできた。生活にそれなりの制約が課せられても苦ではなかった。生き延びてくれたことに、大きな喜びも感じた。
 しかし、私たちを救ってくれたこの犬も中年になってきた。新たな不安の発生である。
 救いを求めてしたことが、次の不安や恐怖へとつながっていく。
 
 

 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?