見出し画像

帰る場所がたくさんある猫

以前住んでいた家にはちょっとした庭があった。その庭と道路の境目には低い塀と、スチール製の低いドアがあって、勝手に入ってくるのは郵便屋さんくらいだった。

ある日、その庭に黒い猫がいた。怖がらせないように、ゆっくりと静かに動いた。その黒い猫の毛並みはつやつやとしていて、体つきもふっくらしているので、たぶんどこかで飼われている猫だろう。

「ごはん、たべたの?」と話しかけたら「にゃ」と返事をする。「くろちゃん?」「にゃーーん」と返事をする。かわいらしいので、ますます慎重になる。なつかせようとして、その日は深追いはせずに家に入った。

次の日も次の日も、くろちゃんは庭にいた。だんだんとそばに寄ってくるようになり、ある日くろちゃんをなでることができるようになった。そこからは、もう、まるで飼い猫のように「くろちゃん?」「にゃ」「かわいいね」「うにゃーんぐるぐるぐる」と会話ができるようになった。
そのうちに、私が出かけるタイミングでなぜかくろちゃんが庭にくるようになった。「にゃっ」と言いながら、塀を飛び降りて私の目の前に登場するのだ。「ほら、かわいいでしょ、さわってもいいよ?」とでも言うように私の目の前でころりとおなかを見せてくる。

猫は人間が思うよりずっと頭が良いのだろう。くろちゃんは私の行動パターンを覚えているようだった。

くろちゃんを見かけない時期がしばらく続き、心配になったころに、また庭に現れるくろちゃんを、私達家族はみんな大好きになった。
くろちゃんはあまりにも人懐っこくて、かわいらしく、いたずらもしないし、ひっかいたり、噛んだりもしないし、家に入り込んだり、盗んだりもしない。ただ、雨の降ったあとなどは薄汚れているし、首輪もないので、飼い猫ではないように思えた。色々な家で、わたし達のような猫好きに可愛がられているのではないか。

ふと、私が20代のころに知り合った彼のことを思い出した。

20代の私は、楽しいことだけやって、わがままに過ごしていた。夜遊びも楽しかったし、女友達とだらだらとお茶することも楽しかったし、スポーツクラブに行くのも、海で遊ぶのも楽しかった。休日には眠りたいだけ眠り、気が向けば深夜まで読書をした。

そんな中で、知り合った彼はパッと見で彼女がいるんだろうな、というタイプだった。骨格が日本人ばなれしていて、長身、サーフィンが好きで、優しそうな雰囲気だった。

彼は遊び仲間の一人で、生活感がなく、同じ年なのにお金と車を持っていた。グループで自由に集まれるように、とマンションの一室を会員制のバーにした。そのバーを拠点に、朝まで皆でクラブをはしごして、朝ごはんをどうするのかを話しながら都内を右往左往して、へとへとになって帰る週末が続いていたが、そのうちにグループの外に彼氏が、彼女ができてだんだんとメンバーが減っていった。

グループで集まることが減ってきたのと同時に、彼から夜ごはんに誘われたり、トレーニングに誘われたり、プールに誘われたりして二人だけで会うようになっていた。仲良くなるにつれて、これ、つきあっているのか?と思うこともあったが、つきあってくれとも、好きだとも言われないし、なんだか空気感が違う。

「あのさ、オレちょっと本格的にウエイト使って鍛えたんだ」

「でね、ジャグジーでやたら女の子たちに身体を触られちゃうんだよね、あれ、オレが触ったら変態なのに、女がオレに触るのはいいの?」

「でさ、気が付いたらゲイの人にずーっとみられていて」

「ロッカールームで告白されちゃった(ゲイの人に)オレ断るのが悪くてさなんか仲良くしようみたいな話になったんだよね。あ、オレはゲイじゃないって言ったけどね」

「でね、ちょっとオレの背筋を見てくれる?」

彼は見た目と中身のギャップがある。女子が10人いたら9人がカッコイイというだろう外見なのに、なんというか、話の内容が女同士で話しているような感じなのだ。彼はゲイではないのに、ドキドキもないし、緊張感もなく楽しい。

晩夏になり、彼から私に電話がかかってくるのは、だんだんとあいだが空いて、連絡が途切れ、あれ?彼女でもできたのか?と思っているうちに、冬になって春になり、また電話がかかってくる。だいたいゴールデンウィーク前のこと。「そろそろ海いく?」という電話だ。断る理由も特にないので一緒に海に行く。

会えばあっという間に元通りで、「なんかいいことあった?オレの腹筋どう?トレーニングさぼらなかった?」的な話をしつつ、海に向かう。

一年のうち、初夏から晩夏までだけ会う友達。それ以外は会わないし、電話もかかってこない。

そうやって何度目かの夏が終わって、彼からの電話が途切れた頃、私は現在の夫と出会った。話はどんどん進んでいって、冬に両親を紹介しあって一緒に暮らすことになり、春には挙式をすることになった。4月になって挙式の準備で立て込んでいる時期だった。夫が仕事で外出していた週末、電話が鳴った。彼だった。

「元気だった?海に行こう?」

まるで「くろちゃん」のようではないか。彼は私と連絡をとらない秋から春にかけてどんなふうに過ごしていたのだろう。性格も良く、見た目もよい彼はいろいろなところに大事にしてくれる誰かがいたのかも。

「うん、あのね結婚することになったよ」

「えーっおめでとう!早く言ってよ、ていうかもう遊べないね、電話とかしたらだめじゃん」

「ん?なんで?」

「いや、まずいっしょ」唐突に電話は切れた。

(え?まずいこととか一回もなかったと思うけど??)

夫に話すべきか、話さないべきなのか、少しの間考えた。

一般的に、恋人以上の間柄になった場合には、過去の関係とか気にする人も多い。変なやきもちを焼かれたらどうしようと不安だったが、彼とは何もないのに、今日話さなかったら隠し事をしているようだし、結婚式の前に夫の信頼を裏切るようなことは絶対に避けなければいけないと思った。

私はそれまでのことを、言葉を選んでものすごく気を付けて、しかしサラッと話した。ところが夫は私の想像の斜め上をいく反応をした。
「僕も会いたいかも?だって面白そうだし。ねえ、ウチに呼びなよ」
「んーたぶん面白くないと思うけど?」(地雷がなくて優しくて良い人だけどね)

__________________________________

くろちゃんと出会った庭のある家を離れて数年経った。今は住んでいないが、たまに帰ることがある。ある日、庭の手入れをしながら、ふとくろちゃんに会いたくて、「くろちゃーん」と呼んでみた。遠くから聞き覚えのあるかわいらしい声が聞こえた。くろちゃんは、私を覚えていた。相変わらずつやつやとした毛並みで、ふっくらと可愛らしい。きっと今もたくさんの家でいろんな人に可愛がられているのだろう。






この記事が参加している募集