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咲残りの桜が好きだ.

春の夜道. 緑に染まっていく木々を眺めて歩いていると蝉の合唱が聞こえてきて, 違和感というより時間を通り越した自然を想う.

緑の中に咲き残りの桜を見つけては, 労働階級や断層を眺めている時の気持ちと同じ気分だなと耽る. 

みんなで一緒に歩み始めてもいつかどこかで, ユニークさや才能|《ギフト》が浮きこぼれと落ちこぼれを生み出していく. その過程の中で, どんな折り合いをつけていくかが人格を形成していくかは臨床や脳科学畑を歩んだ人々なら一丁目一番地の話だけれど,今日書きたいのはそんな話ではない. 

“社会に従属する”刻印を求める青春は, 敗北の人生を歩む準備だった. 生まれによって, 強制的に情報と環境が遮断される社会保障の腐敗はともかく, 死ぬまで敗北感から追われる日々から人々が逃げ隠れようとしている点は言うまでもあるまい. 

予め選択肢を削り, 可能性の芽を駆除しとどめにそんな思考停止の民衆を生み出して芽吹いた花を叩いてまだ芽吹かない種を腐らせる. ディストピアな世界を構築するのには大成功だろう.

さてここからが本題だ.

浮きこぼれも落ちこぼれも共存可能な環境設定ってなんだろう?

労働階層が全く異なるのにも関わらず, 両者が非難し合っているTwitterの炎はいつ止むのだろうかと辟易する. その下へ連なるリプを読むたび萎える. まぁいつもの事だ.

“税金を多く支払ってあげているのだから感謝される”為に働いてるのだろうか?かたや“給付金をもらうほど, 困窮しているのだからそれ以外の人が苦しいのはおかしい”とは不安の矛先を間違えている. 

ルサンチマンに煽られて, ルサンチマン化する現象はいつの時代も変わらないけれど. 先導するリーダーシップだけじゃなくて, 中へ介入しマッチポンプできる人が育つか或いは個別最適化できる環境設定や道具が生み出されるか. いずれにせよ, さまざまな階層や断層を渡り歩く何かが必要なのだろうと思っている. それがデジタルなのかフィジカルなのかもキーだろうけれど. 




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