しなきゃいけないことなんて何もない
Sunaoさんのこちらの文章にとても共感して、私もnoteを綴ろうと思いました。
私も自分や人に対して、「生きているだけで、存在しているだけでもう素晴らしい」って思って生きています(自分に対してそう思えなくなる時ももちろんあるけれど)。
なかなか会えない人だったり、昔に比べて距離が離れてしまった人に対しても、たとえ離れていても
「元気でいてくれたらそれだけでいいや」
「幸せに生きていてくれたらそれだけでいいや」
と思って生きています。
“幸せに生きていてくれたら”の
“幸せ”は、ハッピー!な状態のことだけではなくて、それ以外の全てのことも含めての幸せというか、幸せの中にそれら全ても含まれているというか。
つまりはどういう状況だったとしても、生きていてくれたら嬉しいなという感覚。
でもやっぱり、できればハッピーを感じて生きていてくれたら一番嬉しいなぁ。
そして同時に、「しなきゃいけないことなんて何もない」という言葉を、ついつい生きるのを頑張り過ぎてしまう時には思い出して、自分に声かけしてあげるようにしています。
「しなきゃいけないことなんて何もない」って言ったら
「そんなわけねーだろ!」って思われてしまうと思います。
私自身もこのツッコミはしてしまいます。
だって生きてたらしなきゃいけないことばかり。
もっと成長しなきゃとか、目標や夢を達成したり…
とってもいそがしいのです、この世界は。
じゃあ「しなきゃいけないことなんて何もない」という言葉は矛盾するじゃないか、と思われると思います。
たしかにこの世界は、“なにもせず”には生きてはいけないかもしれない。
私たちが地球で肉体を持って生まれて存在している以上。
だけど、なにかを頑張ったり、特別なことを成し遂げたりすることで得られる“付加価値”と、自分たちが元々生まれながらにして持っている“存在価値”は別ものなんだよね。
昔の自分がそうだったのだけど、なにかをしていないと自分には価値がないという価値観は、自分という人間が空っぽのように感じて、どんなに埋めようとしても埋められなくてくるしい。
自分の存在価値が低いと、そこにどれだけ付加価値を掛けようとしても自分を認められない。
「生きているだけで、存在しているだけで素晴らしい」を思い出すと、
そもそもの存在価値が100(というか∞)なら、そこに付加価値を掛けようと掛けまいと、私たちの存在価値は∞。
「自分のことをそんなふうに思えない」って感じる方も多いかもしれないし、私自身も思えない時の方が多いです。
そんな時、誰かひとりでもいいから、自分にとって大切な人を思い浮かべてみてください。
誰でもいいです。
お母さんでもお父さんでも
お友達でも恋人でも
お子さんでもペットちゃんでも
好きな推しだっていい。
その方に対して、居てくれるだけで(生きていてくれるだけで)嬉しいなぁ有難いなぁ尊いなぁと感じませんか。
誰かや何かを愛おしく、愛でたくなる感覚。
きっとどんな人の中にも在ると思うのです。
好きな人や大切に思える人なんていないって言う方は
お花でも、海でも、空でも、なんでもいいのです。
何かを尊いと感じる心が在るのは、私たち自身がとっても尊い存在だから。
それこそ、生きているだけで尊い存在。
私たちが何か大切なものを愛でるときの尊い眼差しを、少しずつ自分にも向けてあげる。
1ミリだっていいのです。
その1ミリには無限のパワーが在る。
もし、たとえそれでも自分のことをそんなふうに思えなくても、私たちの心の中いる神様は(それは本当は自分自身でもある)私たちを無条件に愛でています。
悲しくて泣いている私たちも
怒りや憎しみを感じている私たちも
自分を責めてしまう私たちも
器用に生きられず不器用な私たちも
幸せを感じて笑っている私たちも
どんな私たちでも、等しく愛でています。
だからどんな私たちでもいいのです。
(等しくと言ったけれど、それでもやっぱり一等可愛く尊く思えるのは幸せを感じて笑っている私たちだと思います)
私も常々、生きていると「これを叶えるためにはもっと○○をしなきゃいけない」などを考えます。
もっと勉強して、成長して、夢を叶えて、人と関わって、人の役に立って、幸せになって……
どれもモチベーションのひとつではあるし、それがあるからこそがんばれて、人生を楽しんでいけるのかもしれない。
だけど、もしこれらを何もしなくても、私たちの存在価値は変わらないのです。
最初から∞なのです。
人間は何かに成るから価値があるのではない。
何かを達成するから価値があるのではない。
夢を叶えるから価値があるのではない。
人の役に立つから価値があるのではない。
価値ある私たちがなにかをするから、そこに価値が生まれる。
その生み出した価値で周りの人を幸せにすることもきっとできる。
何かをするから価値があるのではない。
けれど、もともとの素晴らしい存在の私たちが何かを生み出したら、それは素晴らしいものに決まっている。
矛盾する2つの視点を、どちらも持っていて
その時々で必要な方の視点で自分や人を視れると、私はとても気が楽になります。笑
しなきゃいけないことなんて何もない
ということは
しちゃダメなことも何もない
ということ。
ここでまた「そんなわけねーだろ!」野次おじさんが私の中に出てきますが。
人に迷惑かけちゃダメとか
この世界の“ダメ”を数えだしたらキリがないけれど、でも、本当はしちゃダメなこともないんだよ。
(あくまでもここで言う“しちゃダメなこと”=法的なことなどは除いてあると考えて頂けたら幸いです)
なんというか、しちゃダメなこと=自分を縛る枠のようなもの。
失敗しちゃダメとか
人に好かれなきゃダメとか
○○しちゃダメとか
こうしたらダメ、こうでなきゃダメという価値観という枠。
失敗した自分も
人に嫌われちゃった自分も
○○な自分も
どんな自分も自分が愛でることができたら
人のことも同じように自然と愛でることができる。
そうなると世界ってとっても優しくなる。
がんばってがんばって ほとほと疲れてしまった時
何もかもを辞めたことがある。
何かをすることも、人と関わることも。
そんな自分に罪悪感を感じながらも、他者ではなく自分自身との繋がりや距離を結び直していた時
「この先 失敗しても躓いても
何をしても 何をしなくても
それでもあなたを愛しているよ」
と心の中の自分の声を感じたことがありました。
その時、何かにならなくてはと焦りを感じながら生きていた私は、この言葉による安堵と満たされた感覚から涙が出ました。
その時から、この言葉は私自身のお守りでもあります。
自分の中に在る“無条件に愛でる感覚、愛でられる感覚”を感じてみてください。
なんもできなくてもいいのよ。
だってそれが可愛いもん私。
あなたもそう思うでしょ?😉
このくらい(言い方アレかもしれないけど)図太く開き直って生きるくらいのほうがいいかもしれないよね。
(もちろん自信を持てない私たちでも、内なる神様は可愛いなぁって思ってるよ🐣)
そんなあなた(私たち)に、内なる神様はメロメロよ。
内なる神様からしたら、あなた(私たち)が“推し”なのよ。
他者や世間に認めてもらおうとか、受け入れてもらおうとするのではなく
内なる神様、自分との繋がりを結び直すだけで大丈夫。
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語彙力乏しいからトンチンカンな文章になっちゃったなぁ。
ごめんなさいね(´∇`)
(でも語彙力乏しい自分が一生懸命綴った文章可愛いなぁ)
お読みくださりありがとうございました💐