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【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「1」

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

あらすじ
大学三年生の川村かわむら咲希子さきこは、バイト先の塾で高校時代のかつての恩師・白石しらいし宗司そうじと再会する。家庭に問題を抱える咲希子は宗司に返しても返しきれない恩があった。同時にかつて憧れていた宗司との再会に胸をときめかせながらも、なぜ咲希子の母校である光陽台こうようだい高校を辞めたのか、付き合っていたはずの同僚の名瀬なせ先生とはどうなったのか、なぜ福岡から東京にやってきたのか、何一つ聞けないまま、日々を過ごしていた。陰りを帯びながらもときおり宗司が見せる優しさに翻弄され、秘められたままの咲希子の恋が動き出す。


「ねえ、知ってる? 白石先生、英語の名瀬先生と付き合ってんだって」
 その噂を咲希子たちのグループにもたらしたのは、クラスで一番おしゃべりで情報通な江田えだ佐緒里さおりだった。
「嘘~!」
 咲希子の友人の一人の清香きよかが悲鳴を上げた。
「本当なの?」
 同じく由衣ゆいが問い詰めると、待っていましたと言わんばかりに、佐緒里はスマホを取り出して、写真を見せた。そこには、どこかの水族館でデートをする咲希子たちの担任の白石宗司と英語教諭の名瀬梨沙りさの姿が映っていた。二人は仲むつまじそうに腕を組んでいる。
「うちの姉貴、この高校の卒業生で彼氏とデートしたときに見かけて、画像送ってくれたの。どう見ても恋人同士にしか見えないでしょう? それに、ほらよく見て」
 佐緒里が写真の一部を拡大し、とある一点を指さした。
「名瀬先生の左手の薬指に指輪があるの。つまり二人は結婚秒読みの段階ってわけ」
 興奮気味に語る佐緒里の声があまりにも大きかったので、他のクラスメイトたちも集まってきた。
「白石と名瀬先生が? マジかよ」
 男子生徒が悲鳴をあげた。名瀬先生はスレンダーな美人で、男子に人気があった。そして穏やかで人望のある宗司は女子生徒の秘かな憧れだった。
 咲希子はショックのあまりその場から動けずにいた。
 ――好きだったのだ。宗司のことが。
 佐緒里は頼まれもしないのに、咲希子を含む幾人かのスマホに二人が付き合っているという証拠の写真を送ってくれた。
「でも名瀬先生ってちょっと軽薄そうじゃない? 似合わないな、この二人」
 由衣が言った。咲希子も大きく頷いた。
「結局、白石先生も男だったってことだよ。実はこういう人がタイプだったんじゃない?」
 佐緒里の言葉にクラスのあちこちで議論がわきあがった。宗司は面食いだとか、実は名瀬先生は家庭的で宗司に尽くしているのではないかとか、宗司は名瀬先生に遊ばれているんじゃないかとか、様々な憶測が教室内を飛び交った。
 朝のショートホームルームの時間になると、スーツ姿の宗司が教室に入ってきた。すると数名のクラスメイトが宗司に質問を飛ばした。
「白石先生が名瀬先生と付き合っているって話、本当ですか?」
 咲希子は宗司が何かの間違いだと否定してくれることを祈っていた。宗司はいつものように眼鏡の奥で温和に笑いながら言った。
「どこからそんな話が出たんだ?」
 すると一人の男子がスマホの写真を宗司に突きつけた。宗司はちょっと驚いた表情をしたあと、こう答えた。
「お前らな、教師にだってプライベートってものがあるんだぞ。少しは自重しろ。でないとお前たちの内申書におしゃべりって書き込むぞ」
 クライスメイトたちはどっと笑った。
 だが、咲希子は笑えなかった。
 宗司は噂を否定しなかった。――つまり二人は本当に付き合っているということなのだ。
 咲希子は二重の意味でがっかりしていた。
 ひとつはもちろん宗司が名瀬先生と付き合っているということ、もうひとつは咲希子が名瀬先生のことが苦手だったので、宗司が名瀬先生を選んだと知って嫌な気持ちになったのだ。
 名瀬先生は細身の美人で、スカートから伸びるすらりとした足ときゅっと締まったウエスト、そしてほどよく膨らんだ胸が生徒の羨望の的になっているような教師だった。宗司が好きになるのも無理はないと思ったが、どうしても受け入れることができずにいた。
「先生、結婚式はいつですか?」
 生徒の質問に宗司は噴き出した。
「そんなの聞いてどうするんだ? まさか結婚の贈り物でもくれるのか? プレゼントだけならいつでも大歓迎だぞ」
 クラスメイトたちはお腹を抱えて笑っている。宗司は真面目な顔でこう締めくくった。
「くだらない噂話をしている暇があったら勉強をしなさい。お前らは受験生なんだからな」 
 生徒たちは各々「はーい」と答えた。
 これ以降、生徒たちが二人の話題で騒ぐことはなかった。みな宗司に言われなくても、自分が受験生だとわかっていたからだ。この噂はみなにとってただの娯楽にすぎなかった。
 ただ一部の女子は、「あの二人、いつ結婚するんだろうね」とたまに囁きあっていた。
 その話を聞くたびに咲希子の胸は痛んだ。
 これまで、咲希子は他の人より少しだけ宗司に近い位置に立っていると思いあがっていたからだ。宗司は友達にも誰にも言えなかった咲希子の悩みを真剣に聞いてくれて、よき理解者となってくれた。具合が悪いときも、保健室に連れて行ってくれたし、進路指導で夜が遅くなったときも、車で家まで送ってくれたことがあった。でも、今考えてみると、深刻な悩みを抱えていたり、具合が悪い生徒がいれば、たとえ相手が咲希子でなくても、宗司は必ず助けてくれただろう。宗司はそういう人だった。それでも父親が苦手で、幼い頃から男の人に抵抗感を覚えていた咲希子にとって、宗司は特別な人だった。
 だからかもしれない。
 いまだに宗司のことが忘れられずにいる。

「川村さん、ちょっとお願い」
「はい」
 楠木くすのき先生に頼まれて、咲希子はデータ入力をしていた手を休めて、立ち上がった。空き教室にある横長のテーブルは四角に繋がれていて、その上には紙の束がいくつも並べて置いてあった。楠木先生は、指で輪を描きながらプリントを指さした。
「あそこから時計周りにプリントを集めていって、ホッチキスで止めてね。明日の授業で使うから、今日中にお願いね」
「わかりました」
 咲希子は言われた通りにプリントを一枚、一枚手に取ると、紙束を整えて、ホッチキスで止めていった。簡単な事務作業だったが、これが咲希子の仕事だった。今年で大学三年生になる咲希子は二年半前、進学のために上京したときから、この修学館しゅうがっかんという塾で事務のアルバイトをしている。こんな作業なんて手慣れたものだが、さすがに今回は量が多かった。今は夏期講習の真っ最中で、みな忙しくしている。一人では今日中に終わらないかもしれないと焦っていると、背後から声をかけられた。
「手伝おうか」
「あ、白石先生」
 声を聞いただけで、すぐに誰かわかった。プリントの束を持ちながら振り返ると、咲希子の答えを待つこともなく宗司は近づいてきて、ネイビーのスーツ姿のままプリントを一枚ずつ集め始めた。
「授業はもういいんですか?」
「ああ。さっき終わったよ」
「手伝ってもらってすみません」
「いいんだよ。……これ、楠木先生の依頼だろう?」
「はい。よくわかりましたね」
「あの人はよく無茶ぶりするからね」
 咲希子は話題を変えた。
「先生の授業、評判いいですよ」
 夏期講習を受けにきた生徒のアンケートを見たことを説明すると宗司は笑った。
「まさか、ここで働き始めてたった一ヵ月で、特進クラスの授業を任されるとは思わなかったよ」
 宗司は元は数学の教師だった。もともと特進クラスの数学は、別の男性講師が担当していた。しかし、その講師が椎間板ついかんばんヘルニアで入院を余儀なくされたため、宗司に白羽の矢が立った。宗司は今、普通クラスと特進クラスを兼任している。宗司と話しながら、咲希子はいくつも疑問がわきあがった。なぜ高校を辞めたのか、どうして修学館で講師をやっているのか、名瀬先生とはどうなったのかなど聞きたいことはたくさんあるのに、再会して一ヵ月が過ぎた今もいまだに訊けずにいる。
「わたしが高校生のときも、先生の数学の授業、とてもわかりやすかったです。生徒からのアンケート用紙を見ながら思い出していました」
 昔の話をすると、宗司はちょっと困った顔になる。でも、咲希子と宗司の接点は、卒業した高校だけなので、つい懐かしく口にしてしまうのだ。
「……川村は、どこの大学に在籍してるんだっけ?」
立信大りっしんだいの文学部の日本文学科です。わたしが一番得意だった教科が国語だったので、選んだんです」
 元気に答えながらも咲希子はがっかりしていた。咲希子が高校三年生のときの担任は宗司だったのに、咲希子がどこに進学したのか忘れてしまっていることにショックを受けていた。
 だが、もう二年以上前のことだし、クラスには三十人もの生徒が在籍していたのだから、覚えていなくてもしかたないのかもしれない。
 宗司は苦笑した。
「ぼくもそうだったな。数学が一番好きで、だから数学科に進んだんだ。でも潰しのきかない学科だし、自分が研究者に向いているとも思えなかったから教職を取って教師になったんだ」
 宗司と今にも肩がふれあいそうな距離にいて、どきどきしながら咲希子は言った。
「でも先生にとって教師という仕事は天職だったんじゃないんですか? あんなに生徒に慕われてたじゃないですか」
「そんなことないよ。みんな若くて世間を知らないから、教師って職業に幻想を抱きすぎてるんだよ。実際のぼくは、そんなにたいしたやつじゃないよ」
 宗司は静かに答えた。それは、宗司がこれ以上踏み込んでほしくないと思っているサインだった。咲希子は言葉の続きを飲み込んだ。
 ――わたしも教職を取っているんです、と。
 宗司みたいに数学は得意じゃなかったので、咲希子は中学と高校の国語の先生になれる資格の取得を目指していた。自分が先生に向いているとは思っていなかったけれど、宗司のような生徒に寄り添える教師になりたくて、選んだ道だった。
 蛍光灯の明かりの下で見る宗司の顔には、陰影が刻まれていて、二十八歳とは思えないほど疲れて見えた。たった二年の間に、いったい何があったのだろうか。咲希子が高校生のとき、宗司はこんなに暗い顔はしていなかった。明るくて純真で無邪気な笑顔で、生き生きと生徒たちを指導していたのに、いったいどうしたというのだろうか。気になってしかたなかったが、咲希子は宗司の個人的なことに踏み込めるような立場ではなかった。
 咲希子はこの予備校で宗司と再会したときの出来事を思い出していた。

「今日からうちで働いてもらう白石君だ。担当は数学だ」
 夕方の授業が始まる前に塾長にそう紹介されたとき、咲希子は驚いた。まさかこんなところで宗司に会えるとは思っていなかったからだ。
「白石宗司です。よろしくお願いします」
 宗司が自己紹介して、頭を下げると、在籍していた職員も順番に自己紹介していった。最後に咲希子が「事務のアルバイトの川村です」と名乗っても宗司は顔色ひとつ変えずに礼をしただけだった。その三日後の土曜日に、宗司の歓迎会が開かれた。お酒の席で宗司は質問攻めにされていた。
「先生のご出身は?」
「福岡です」
「前はどこで働いていたんですか?」
「私立の高校です」
「どうして転職したんですか?」
 そこで宗司はちょっとだけ言葉を詰まらせながら答えた。
「少し、環境を変えたくて」
「ま、疲れますよね。私立の高校だと生徒一人一人に向き合わないといけませんし」
 かつて中学で生物の教師をしていたという楠木先生が納得した様子でうんうんと頷いた。
 そして、プライベートなことを聞いた。
「先生はご結婚はされているんですか?」
 宗司は苦笑した。
「独身ですよ」
 宗司の左手の薬指に指輪ははまっていない。だが、結婚はしていなくても、彼女の存在については言葉を濁していた。しかし、楠木先生の猛追もうついに負けて「恋人はいません」と答えていた。やはり名瀬先生とはもう別れたようだった。
 それからも宗司はお酒を飲みながら静かにしゃべっていた。だが宗司が多くを語らなかったため、話題が尽きると、みな別のグループを作って飲み始めた。塾長が気を遣って宗司の相手をしていたが、やがて塾長がお手洗いに立った隙を見計らって、咲希子は宗司に近づいた。
「先生、お久しぶりです」
 宗司が一瞬、間の抜けた顔をした。「誰?」というリアクションをされたので、咲希子は忘れられていたことにショックを受けながらも、言った。
「光陽台高校で教え子だった川村咲希子ですよ。覚えてないんですか?」
 今度は三秒ほど間を空けてから、思い出したように宗司は目を丸くして、破顔した。
「ああ、川村か。懐かしいな。元気にしてたか?」
「はい。先生も……お元気そうで何よりです」
 本当はとても元気そうには見えなかったので、つい言葉がどもってしまった。間近で見ると、その表情には疲労が蓄積していたが、男性にしては色の白い端正な顔立ちは昔のままだった。
「ぼくは老けて見えるだろう?」
 宗司は顔に手をあて、困ったように首を傾げた。咲希子は慌てて両手で手を振った。
「違いますよ。ただ、前よりだいぶ痩せたみたいだから、驚いたんです。まだわたしが卒業してから二年半しかたっていないのに」
「……ぼくにとっては長い二年だったよ」
 宗司の表情が陰ったので咲希子は訊いた。
「何かあったんですか?」
「……たいしたことじゃないよ」
 ため息をついた宗司は咲希子に告げた。
「悪いんだけど、ぼくと川村が知り合いだってことはみんなには黙っててほしいんだ」
 三年前、柔らかな曲線を描いていた目じりに皺を寄せると、宗司は言った。思いがけない再会に、心底困っている様子だったので、咲希子はしかたなく頷いた。
 それからしばらくは予備校で宗司と会っても挨拶程度しか言葉を交さなかった。しかし、根っからのお人よしの宗司は、咲希子が困っていると今日のように見るに見かねて助けてくれるようになった。この一ヵ月、咲希子は宗司の気配を感じるたびに、高校時代に戻ったかのように一喜一憂していた。

「白石先生って、川村さんには優しいよね」
「え?」
 夕方の六時過ぎ、パソコンでの作業中に経理の谷口(たにぐち)さんにそう言われ、咲希子は驚いた。
「この間も仕事手伝ってくれてたし、いつもはちょっととっつきにくいのに、川村さんの前ではよく笑ってるよね」
「そうですか?」
 その昔、生き生きとみなに接していた宗司より、あきらかに覇気のない姿だったのでそんなことを言われて驚いた。
「そうよ。だから川村さん、楠木先生に目をつけられてるのよ」
 バツイチで高校生の息子を女手ひとつで育てているという谷口さんは、ひょいっと肩を竦めた。
 咲希子はどう答えていいのかわからなかった。
 楠木先生は、三十代の後半の生物の講師で明らかに結婚に焦っていた。この間、マッチングアプリで知り合った男性に大衆居酒屋に連れて行かれ、食事を割り勘にされたことを愚痴っていたのを聞いたのだ。
「白石先生、案外、川村さんに気があるんじゃない?」
「それは絶対にないです」
 少なくとも名瀬先生みたいな完璧美人と付き合うような人が、平凡な咲希子に手を出そうなんて思わないだろう。
「それにしても白石先生、教えるのうまいのに、どうしてうちみたいな弱小の塾に勤めてるんだろうね」
 それは咲希子も不思議に思っていたことだった。咲希子が通っていたのは、その土地ではそれなりに名の知られた私立の進学校だった。宗司の授業は熱心でわかりやすいと評判だったので、光陽台高校を辞めても引く手あまただったのではないのだろうか。
 ちょうどタイミングよく宗司が廊下から事務室に入ってきたので、咲希子たちはぴたりとしゃべるのをやめた。カップラーメンを手にした宗司を見て、谷口さんが視線を鋭くした。
「白石先生、御飯、いつもそればっかりじゃないですか。身体に悪いですよ。次の授業までまだ一時間もあるんですから、ちゃんとしたもの食べたほうがいいですよ」
「……でもこのあたりに何の店があるのかよく知らないので」
 いきなり話しかけられて、宗司は困惑している。
「だったら川村さん、あなた案内してあげなさい。もう休憩に入るところでしょう? 小関のとんかつ定食とかアントープのパスタとか、この辺りは美味しいお店が多いんだから、教えてあげなさい」
 親切の押し売りは迷惑ではないかと思っていると、宗司はしばらく考えて頷いた。
「川村さんがいいならお願いしたい」
「あ、はい。わかりました」
 咲希子は急いで席を立つと、デスクに入れておいた財布を手にして外に出た。宗司は修学館の前で先に咲希子のことを待っていた。咲希子が隣に立つと二人は並んで歩き始めた。
「向こうの角を曲がったところには、コンビニがあります。あとラーメンならあっちにある天竜の豚骨ラーメンがお勧めです。谷口さんが言っていたアントープは駅のほうにあります。先生は、今日は何を食べたいですか?」
「川村に任せるよ」
「じゃあ、小関のとんかつ食べに行きましょう」
 宗司は少し太ったほうがいいと思ったので、咲希子は財布を握りしめてそう提案した。幸い店は空いていて、奥の席を確保することができた。注文を取りにきた店員にとんかつ定食を二人前注文すると、咲希子はお冷に口をつけた。
「さっき、ぼくの悪口言ってただろう?」
 宗司は含み笑いをしながら、からかうように咲希子に訊いた。
「え?」
「谷口さんと仲良く話していたのに、ぼくが入って行ったら、急にしゃべるのやめただろう? すぐに悪口を言われてるってわかったよ。教師をやってたらそういうことは多々あるからね」
「え、先生の悪口言う人なんているんですか?」
「たくさんいたよ。だから慣れてる」
「言っておきますけど、悪口じゃないです。ただ、……先生みたいな優秀な人がうちみたいな弱小の塾にいるのが不思議だって話してたんです。探せば、もっとお給料のいい勤め先、あったんじゃないんですか?」
 すると宗司は窓の外に視線を投げた。
「……この街の雑多なところが気に入ったんだよ。ぼく一人がいてもいなくてもわからないような街だったから」
 まるで逃亡中の犯罪者の台詞のようだと咲希子は思った。宗司の視線の先には古びた雑居ビルが立ち並んでいる。お世辞にも清潔な光景とは言えないのに、宗司はそこが気に入っているのだという。不思議だった。十分ほどすると、とんかつ定食が運ばれてきた。
 宗司は箸を手に取ると、さっそくとんかつに手を付けた。さくっと衣が潰れるこぎみよい音が響いた。
「うん。美味い」
「よかった。ここ、ご飯とお味噌汁はお代わり自由なんですよ」
「そうなんだ。覚えておくよ」
 そこで宗司は思い出したように訊いた。
「このあたりに食料品を売っているお店はどこにあるのか、知ってるか?」
「駅ビルの地下がスーパーです」
「ユニクロは?」
「同じ駅ビルの五階に入ってますよ。結構広い店舗ですよ」
 そこで咲希子は思わず笑った。
「先生でもユニクロに行くんですね。そんなイメージなかったです」
「笑うな。ユニクロは庶民の味方だろう」
「でも可笑しくて。東京はあんまり詳しくないんですか?」
「片手で数えるほどしか来たことないよ。高校の修学旅行の付き添いでディズニーランドには行った覚えはあるけど。川村たちの前の年の卒業生の旅行先は東京だったから」
「……ディズニーランドは千葉ですよ」
 咲希子がこみ上げる笑いをこらえていると、宗司がむっとした顔になる。
「川村だって、東京に来て、たかが二年くらいだろう? なのにずいぶん偉そうだな」
「わたしは自炊はしてますし、地理も勉強しましたから」
 ますますむくれる宗司の表情があまりに子供っぽくて咲希子はおかしくなった。すると宗司も肩から力を抜いてふっと笑った。咲希子はどきりとした。再会してから、こんなに自然な笑顔を見たのは初めてだった。高校時代にはあった宗司の溌剌さは、東京では失われているのを感じていた。咲希子は動揺を押し隠すように言った。
「スーパーの場所も知らないなんて、東京に来て一ヵ月以上も過ぎたのに、何してたんですか?」
「ずっと塾と家の往復だよ。アパートから修学館まで、結構、道が複雑なんだ。買い物はずっとネットを使ってた。これでも、毎日、教える授業の予習で忙しいんだよ」
 宗司は愚痴をこぼした。確かにいきなり特進クラスを受け持つのは大変だろう。
 スマホで時間を確認すると、いつの間にか次の授業まであまり時間が残されていなかったので急いで食べてから、店を出た。「今回だけ」と言って、宗司はとんかつ定食をおごってくれた。咲希子はありがたく申し出を受けた。
「次はわたしがおごります」
 そう言うと宗司は「うん」と言ってくれた。さりげなく次の約束ができたので、咲希子は内心浮かれていた。

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