見出し画像

【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「2」



「ガンガン行けばいいじゃない。今は誰のものでもないんでしょう?」
買い物の途中で一緒にランチを食べながら、咲希子の友人の花菜が言った。  
 猫舌の咲希子はスープパスタを冷ましながら唸った。
「……でも先生だよ? わたしなんかが恋愛対象になるのかな」
「今はもう教師と生徒じゃないでしょう? しかも、咲希子のこと気にかけてくれているんでしょう? 逆にわたしなら行かない意味がわからないよ」
 大学に入って友達になった花菜は咲希子と違って恋愛には積極的なほうだ。去年、猛アタックの末、付き合い始めた年上の先輩が今の彼氏だった。
「花菜ちゃんは自分に自信があるタイプだから、そんなこと言えるんだよ。もし告白してうまくいなかなったら、気まずくてもうバイト辞めるしかなくなるよ。生活に困るよ」
「わたしはうじうじしている咲希子にイライラするけど? 咲希子が去年付き合っていた小石原君なんて、もう三回も彼女が変わってるのに」
 嫌な名前が出たなと思った。
 小石原君は大学に入って咲希子に積極的に言い寄ってきた初めての男の子だった。行動的な彼とは合わないだろうと思っていたけど、男の人に対してどこか線引きして一歩引いている自分を変えたくて付き合い始めた。だが、一ヵ月もたたないうちに振られてしまった。
「お前といるとつまらないんだよ」
 そう言われてしまった。
 正直、咲希子は小石原君のことが好きだったわけじゃなかったけど、さすがにその言葉には傷ついたし、ますます男の人を苦手に感じるようになってしまった。でも、宗司と一緒にいるときは、不思議と変な引け目を感じることなく話をすることができていた。
「でも先生、すっごい美人と付き合ってたんだよ。わたしなんか……」
「うちらには若さって武器があるじゃない。わたしたち、まだ大学三年生で二十歳なんだよ。相手なんて選び放題なんだよ」
 それは花菜ちゃんがもてるからそう言えるんだよ、とは咲希子は口にしなかった。またイライラすると言われそうだったからだ。さばさばした美人の花菜がどうして自分なんかと友達でいてくれるのか咲希子は不思議だった。
「わたしってずけずけものを言いすぎるから、とくに同性から嫌われるんだよね」
 さして困った風でもなく花菜はそう言っていた。
 優柔不断な咲希子は、ぐいぐい引っ張ってくれる花菜の存在がありがたかった。
「でも、先生にアプローチするなんて、どうしたらいいかわからないよ」
「なんでもいいからデートに誘えばいいじゃない。その先生、東京の地理に疎くて困ってるんでしょう? 買い物デートでもしなよ。ほら、今からでもいいから連絡しな」
 渋々スマホを取り出そうとした咲希子は重要なことを思い出した。
「……わたし、先生の連絡先、知らない……」
 花菜があきれ顔になる。
「あんたこの一ヵ月、何してたの? 同じ職場なんだから、連絡先なんていくらでも聞けるでしょう?」
「……うん。そうなんだけど……」
 咲希子は宗司の内側にどう踏み込んでいいのかわからないでいた。宗司と知り合いであることを職場では言わないでほしいと頼まれたことを花菜には伝えていなかった。だから言い寄っても迷惑がられるだけな気がしていた。  
 しかし、最近、咲希子を先に拒んだ宗司のほうが距離を縮めてきているようにも思えていた。
「咲希子は、本気の相手に、一度、失恋したほうがいいよ」
「え?」
「そうしないと、誰とも恋愛できないままだよ。男と付き合うって、結構ありふれたことで、そんなに身構えるようなことじゃないんだよ」
 黙り込む咲希子に、花菜は言った。
「いつまでもうじうじしていると、他の女に取られちゃうよ」
 見知らぬ女性と寄り添う宗司を想像すると胸が潰れそうになった。
「……わかった。努力してみる」
 咲希子は頷くと、半分冷えたスープパスタを食べ始めた。

「これがスカイツリーか。すごいな」
 宗司は感心したように景色を眺めていた。
 花菜の助言に従って、咲希子は宗司を買い物デートに誘ったついでに、東京スカイツリーに寄ったのだ。この日は快晴で、運よく青々とした富士山を遠くに見ることができた。展望デッキには光が差し込み、宗司の顔を明るく照らしている。
「先生、一緒に写真撮りませんか?」
 咲希子が思い切って言うと、宗司は視線を伏せた。
「ごめん。写真は苦手なんだ」
 陰りのある声で言われ、咲希子は首を振った。
「いいんです。わがままを言ってすみません」
 咲希子は高校の修学旅行で京都に行ったとき、生徒に誘われるままに写真に収まっていた宗司を思い出していた。混じりけのない白い笑顔で写る宗司の顔はとても嬉しそうで、嫌がっているようには見えなかったのに。
 展望デッキから遠くを見ながら宗司は言った。
「川村は地元の友達と連絡を取ったりしていないの?」
「仲間内でわたしだけ東京に出てきちゃったので、すっかり疎遠になっちゃいました。他のみんなも勉強やバイトで忙しいんだと思います」
「……そうか」
 宗司はどこかほっとしたような、けれど寂しさの混じったような表情を浮かべている。
 スカイツリーを降りると、今度は浅草寺に向かった。雷門(かみなりもん)をくぐって仲見世に入ると道は観光客であふれかえっていた。
「わたし、浅草って初めてです」
「ぼくもだよ」
 ちらほらと制服姿の生徒もいた。おそらく修学旅行で来ているのだろう。みんなで楽しげに会話しながら、お土産を眺めている。
「若いっていいな」
 活気のある学生たちを見ながら宗司は言った。
「先生だって、まだ二十代じゃないですか。十分若いですよ」
「もうすぐ三十だ。高校生から見たら十分おじさんだよ」
「そんなことないです。先生に好意を寄せている生徒、たくさんいましたから」
「それを若いって思えること自体、ぼくはもうおじさんなんだろうね。大学時代の同級生も次々に身を固める歳だし」
 宗司は苦笑している。咲希子は思い切って尋ねた。
「……先生は結婚しないんですか?」
「ああ。誰ともしないつもりだ」
 どうして、とは咲希子は訊けなかった。このまま話を続けていたら名瀬先生の名前を出してしまいそうな自分が怖かった。
「川村こそ、恋愛しないでいいの?」
「わたし、彼氏がいないなんて一言も言ってませんよ」
「わかるよ。だってせっかくの貴重な休日にぼくの相手をする時間があるくらいだ。誰もいないんだろうなって想像つくよ」
 咲希子は唇を尖らせた。
「これから出会う予定なんです。うちの大学大きいから、すぐに彼氏できちゃいますよ」
 言いながら、変な強がりを言ったことを後悔していた。なぜ素直に、自分を恋愛対象として見てくれませんか、と言えなかったのだろうか。でも宗司が誰とも結婚するつもりがないと言ったとき、わかったのだ。宗司はもう恋をするつもりはないのだと。
 鞄の中でスマホが震えた。
 画面を見ると、母の佳絵からの着信だったので、咲希子の身体は凍りついた。しばらく待っても、スマホは振動し続けた。しかたなく咲希子は宗司に断りを入れて通話に出た。
「お母さん、どうしたの?」
『咲希子、あなたお盆休みは帰ってくるでしょう?』
「バイトがあるから無理だよ」
 すると佳絵は呆れた声で言った。
『おばあちゃんの一周忌の法要に帰ってこないつもりなの? 相変わらず冷たい子ね』
「……ごめんなさい」
『親戚がたくさん集まるのよ? 法事のあとは宴会になるわ。あなた以外の誰が皿洗いをしてくれるっていうの?』
「お姉ちゃんは帰ってくるの?」
『翠子に皿洗いなんて頼めるわけないでしょう? あなたと違って忙しいのよ』
「……ごめんなさい」
 自分も忙しいのだと言いたかったが、不満を口にすると、もっときつい言葉が返ってくることはわかっていたので、謝罪を繰り返した。
『せっかく東京の大学にまで出してあげたのに、本当に親不孝な子』
 それだけ言うと通話はぷつりと切れた。
 咲希子はスマホを持ちながら、しばらくぼうっとしていた。
「川村、どうしたの?」
 宗司に声をかけられて、ようやく我に返った。
「あ、すみません」
「誰からの電話だったの?」
「……母からです」
 咲希子が表情を引き攣らせていると宗司が真顔になった。
「川村のお母さんは相変わらずなのか?」
「……はい。――先生は母のこと、覚えてるんですか?」
「ああ。なかなか強烈だったからね」
 宗司は高校三年生の三者面談のとき、佳絵と顔を合わせていた。

「この子は姉と違って、出来が悪くて、先生も大変でしょう? 本当に申し訳ありません」
 会ってすぐに謝罪され、宗司はぽかんとしていた。
「川村は優秀ですよ。テストも毎回上位に入っていますし、迷惑をかけられたこともありません」
「そりゃ、ちょっとは勉強ができるのかもしれませんが、それが何の役に立つっていうんですか?」
 佳絵の言葉に咲希子はうなだれた。宗司は少し重い声を出した。
「もちろん、希望する大学に入って、希望する仕事に就ける可能性が高くなりますが」
「大学? 短大で十分です。この子にはもう十分手をかけてきました。これ以上、わたしにできることはありません。それに、この子の行ける大学なんてたかが知れています」
「川村の第一志望の立信大は、十分合格圏内ですが……。歴史もあっていい大学ですよ」
「でも旧帝大に入るには遠く及ばないじゃないですか。この子の姉は現役で入れたのに。うちの翠子は、高校も公立で、いつも親に迷惑をかけないそれはそれはいい子なんですよ? ああ、この場に連れてくればよかったわ」
 佳絵は本気で言っていた。咲希子は耳を塞いでしまいたかった。佳絵のこの手の愚痴は毎日のように繰り返されてきたからだ。外でも巻き散らかされ、咲希子は恥ずかしかった。
「それなのにこの子は、受験に失敗して私立の高校なんかに通って、その上、また私立の大学に行きたいだなんて、本当に迷惑な話ですよ」
「……家計のことが心配なら、奨学金をお勧めしますが……」
「奨学金だなんて、めっそうもない。そういうのはもっと頑張っている子に使うべきだと思いませんか?」
 宗司は少し間を空けると、しゃんと背筋を伸ばして言った。
「川村はいつも頑張っていますよ。学校にも休まず来ていますし、課題の提出が遅れたこともないし、問題を起こしたこともありません」
 咲希子ははっとなって宗司を見た。誰かに頑張っていると言われたのは、生まれて初めてだったので、驚いたのだ。しかし、佳絵の反応は違った。
「そんなの、当たり前じゃないですか!」
 佳絵はそれからも長々といかに咲希子が出来の悪い子かを語り、宗司を困らせた。三者面談が終わると、佳絵は用は済んだとばかりにさっさと帰っていった。この日の面談の順番は咲希子が最後だったので、他の生徒は教室に残っていなかった。咲希子が落ち込んでいると、宗司はため息をついた。
「……川村、君も大変だな」
 そう言って、宗司はぽんと咲希子の頭なでてくれた。咲希子は泣きそうになりながら言った。
「……昔、わたしが身体が弱かったせいで、お母さん、好きだった仕事を辞めるはめになったから、わたしを恨んでいるんです。わたしのせいで、うちはあんまり裕福じゃないから、両親はわたしのことなんてお荷物としか思ってません。わたしはうちでは厄介者なんです」
「そうか」
 宗司は静かに言った。
「川村は立信大、行きたいんだろう?」
「はい。……でも、正直に言えば、家を出たいから東京の大学を希望したんです。わたしの学力で狙える範囲の大学を選んだだけです」
「立信大には給付型の奨学金もある。後で、資料を渡すから、目を通しておきなさい。……君が親の言いなりになる必要はない」
 力強く言われ、咲希子の瞳に涙があふれた。泣きだした咲希子に宗司はハンカチを渡してくれた。
 それから宗司は、咲希子の親の功名心をくすぐる形で説得し、奨学金を利用して家に迷惑をかけないことを条件に、咲希子が希望する大学に行けるようにしてくれた。
「困ったことがあったらいつでもぼくを頼りなさい」
 卒業前、進路指導室で二人きりになったとき、宗司は咲希子にそう言った。咲希子には宗司に返しても返しきれない恩がある。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」
 夜の七時過ぎ、宗司は咲希子が住んでいるアパートの前まで送ってくれたが、咲希子は別れがたい気持ちを抱いていた。家に上がって行きませんかと言いたかったけれど、やはりまた口にすることができなかった。単純に断られることが怖かったのだ。宗司は咲希子が階段を登ってアパートの二階の部屋に入るまで、じっと見守ってくれていた。家の中に入ろうとして、咲希子は突然思い立ったように、階段の上から叫んだ。
「先生!」
 立ち去りかけた宗司は足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
「何か困ったことがあったら、いつでもわたしを頼ってください!」
 宗司は驚きに瞳を見開くと、やがて柔らかく笑いながら「ありがとう」と礼を言った。
 咲希子はせわしなく階段を降りて一階に立った。宗司の前まで来ると、鞄からスマホを取り出した。
「だからいつでも連絡が取れるようにしておきたいんです。先生の連絡先、教えてもらってもいいですか?」
「ああ、そういえばまだお互い知らなかったね。昔からの知り合いだからすっかり忘れてたよ」
 宗司は何のためらいもなく連絡先を教えてくれた。宗司の無骨な指がスマホを操作するたびに咲希子はどきどきしていた。連絡先を交換すると今度こそ宗司は帰っていった。咲希子はその背中をいつまでも見送り続けた。

 九月に入ったが、まだまだ残暑の厳しい日々が続いていた。咲希子はあまりの暑さにため息をもらした。
「咲希子、あんまりため息ばっかりついてると、幸せが逃げちゃうわよ」
 花菜にいつも言われていることなので咲希子は言葉に詰まった。花菜は悩みとは無縁そうな顔をしている。
 空を見上げると、見事に晴れあがっていた。花菜は手でひさしを作ると、自分も息を吐いた。
「まあ、この暑さじゃ、しかたないか」
「……こんな暑い中、みんなよく新宿なんかに出て来ようと思えるよね」
「それはわたしたちも同じでしょう」
 たしかにそうだった。今日、咲希子と花菜は、新宿にある大型書店に買い物に来ていた。今月中に提出する予定の課題の資料を探すためだった。
「帰りに服とか見たいね」
「あー、わたしパス。今月ピンチだし、課題やらないといけないし」
「咲希子は毎月ピンチだね」
 花菜はからかうように笑った。咲希子はまた深々とため息をついたが、ふとあることを思い出して、唇の端を持ち上げた。
「わたし、花菜ちゃんに報告しないといけないことがあるの」
 言葉のニュアンスからそれが何かを察した花菜は、「なになに?」と咲希子に顔を寄せた。
「わたし、この間、先生と連絡先を交換したんだ」
 花菜は思わずといった感じで眉間に皺を寄せた。
「小学生かっつーの! それくらいで喜ぶな! で、それから、その先生に連絡取ったの?」
「……う、まだ」
「もう、じれったい! ちょっとスマホ出して」
 咲希子は言われるままに、スマホを取り出すと、パスワードを解除した。そこで咲希子の手からひょいとスマホを取り上げた花菜は、何かを打ち込み始めた。
「ちょっと、花菜ちゃん、何やってるの?」
「あんたの先生に、ラインしてるの。今、どこにいますかって」
「え⁉」
「もしかしたら近くにいるかもしれないじゃない。そしたら会えるじゃない」
「そんな偶然、あるわけないじゃん。スマホ、返してよ」
 唇を尖らせる咲希子の前で、花菜が目を丸くした。
「あ……」
「え、なに?」
「あんたの先生、今、新宿にいるって、返信が……」
 スマホを奪い返した咲希子は、急いで画面を確認した。すると、たしかに宗司とのやり取りに、「今、新宿だよ」と返ってきていた。
「……嘘」
「ほら、咲希子、ぼけっとしてないで、返信、返信」
 咲希子は慌てて、「わたしも新宿にいます」と返信を打った。すると、一分もしないうちにまた返事が返ってきた。
 ——もし時間があったらちょっと用事を頼んでもいいかな?
 背後からこのやり取りを眺めていた花菜は、「早く、いいですよって、返事しろ」と咲希子をせかした。
 
 十分後、咲希子は宗司と新宿駅の西口で落ち合った。
「呼び出してごめん。本屋に行こうとしたんだけど、駅から出るとき東口と西口を間違えてしまって、そうしたら道がわからなくなったんだ。スマートフォンで道を調べようとしたけど、道が複雑で迷ってしまって……」
 咲希子についてきた花菜は目を皿にして宗司を見ていた。そして咲希子に耳打ちした。
「ちょっとちょっと、なかなかのイケメンじゃん! あんた、案外、理想高いのね」
「ちょっとやめてよ」
 咲希子が小声で注意すると、宗司が申し訳なさそうに言った。
「……ほんとにごめん。友達と一緒だなんて思わなかったんだ」
 たしかにこの状況で人が一緒だとは思わないだろう。
 すると花菜はにこりと笑った。
「いいえ、わたしたちもちょうど本屋に行こうとしてたところなんです。だから、謝らないでください。迷惑なんかじゃありませんから。本当に、ぜんぜん」
 花菜の言い方がおかしかったらしく宗司はふっと笑った。
「ありがとう」
 花菜は咲希子と宗司の前を率先して歩きだした。咲希子と宗司は並んで道を進んだ。
「それにしても、川村たちも本屋に行くところだったんだ。奇遇だね」
「先生こそ、本ならネットで買うものだと思っていましたよ。道に詳しくないのに、よくわざわざ人の多い新宿に出てこようと思いましたね」
「数学書だったから実物を見てから買いたかったんだ。それに、欲しい本の在庫があるの、新宿だけだったんだ。川村は何の本が目当てなの?」
「大学のレポートに使う本です」
「そうなんだ。大学生も楽じゃないな。バイトもあるのに大変だな」
 宗司は感心したように頷いている。
 その顔を見ていると咲希子の胸が痛んだ。もう二度と恋をするつもりのない宗司の隣にいることが、半分失恋したように苦しくなったのだ。
 しばらく歩いていると、ようやく目当ての大型書店が見えてきた。咲希子たちの目当ての本とは階が違ったので、入口で別れることになった。
「先生、帰り、大丈夫ですか?」
「駅までほぼ一本道みたいだったから、大丈夫だよ。連れてきてくれてありがとう」
 宗司は花菜を見て微笑んだ。
「お友達もありがとう」
 さすがの花菜も恐縮した様子で手を振った。
「いえいえ、いつでも呼んでください」
 宗司の姿がエレベーターの奥に消えると、花菜はにやりと笑いながら咲希子をつついた。
「あー、ありゃ惚れるね。あんな笑顔向けられたら、落ちない女のほうが少ないだろうね」
「……知ってる。高校時代、先生を想っていた生徒がどれだけいたと思ってるの?」
 花菜が咲希子の背中をポンと叩いた。
「でも、咲希子はあの先生に頼られるくらいの距離にはいるんだから、頑張ってみなよ」
「……うん」
 咲希子は、どう答えていいのかわからなくて、悄然としながら頷いた。
 結局、咲希子が本を見ているうちに、先に選び終えた花菜は、彼氏に呼び出されたとかで帰ってしまった。咲希子はそれから一時間かけて本を選ぶと、会計を済ませて外に出た。まだ時間があったので、涼しいところでレポートをしようと思い、近くのカフェに足を運んだ。運のいいことに窓際の席を確保できた。ワイヤレスのイヤホンをして、ノートパソコンを立ち上げてレポートに集中していると、突然、背後から背中を叩かれた。咲希子は驚いて振り返った。
「あ、先生……」
 なんと宗司がコーヒーカップを片手に咲希子の横に立っていた。宗司が何かを言ったので、イヤホンを外すと、「相席いいかな?」と言われた。周囲を見回すといつの間にか席は混雑していた。
「は、はい。どうぞ」
 咲希子は本をテーブルの端によけた。
「レポートの途中にごめんね」
「びっくりしました。先生、買い物終わったら、帰るって言ってたじゃないですか」
「うん、そうなんだけど。買った本を早く読みたくなってね。買い物している途中に、川村の友達が、ここのカフェなら人が少なくて立ち寄りやすいって教えてくれたから」
 どうやら花菜の策略のようだ。花菜は新宿に立ち寄ると咲希子がここのカフェをよく利用することを知っている。咲希子は混雑する店内を見ながら言った。
「的外れなアドバイスですみません。いつもなら、こんなに人はいないのは確かなんですけど……」
「途中で雨が降ってきたから、しかたないよ」
 咲希子が外を見ると、さきほどまであれほど晴れていた空が見事な曇天どんてんになっていた。地面を歩く人々はそれぞれ傘の花を咲かせながら、道を急いでいる。
「本当だ。気づきませんでした。傘持ってくればよかったな……」
「どうせすぐ止むよ。さっき天気予報確認したけど、通り雨みたいだよ」
 咲希子はほっとした。
「ぼくはコーヒーを飲んだら、すぐに帰るから」
「いえ、わたしは大丈夫ですから、ゆっくり本を読んでいてください」
「でも、勉強しているのに人がそばにいたら気にならない?」
「わたしはそういうの、平気です」
 咲希子はなんでもないふうに笑うと、平静を装いながら、再びノートパソコンのキーを押し始めた。ところが三十分もしないうちに問題が発生した。ノートパソコンの充電が切れかかっている表示が出たのだ。咲希子は急いでデータを保存すると、ノートパソコンの電源を落とした。咲希子がパソコンを閉じたので、宗司が顔を上げた。
「どうしたの?」
「充電がなくなって電源、切れちゃって……」
 買ったばかりの本に真剣に目を通していた宗司が思わずといった感じで笑った。そして本を閉じると、コーヒーに口をつけ、雨粒が地面を叩き付ける外を見ながら言った。
「雨、なかなか止まないね」
「そうですね。でも、わたし雨って好きなんです」
「どうして?」
「昔は、あんまり好きじゃなかったんです。……寂しくなるから。でも山村やまむらちょうの、『雨は一粒一粒ものがたる』って詩を読んで、この雨粒のひとつひとつに人間みたいに命があって想いがあるって思ったらなんだか灌漑深くなっちゃったんです。詩の影響ですけど、とくに静かな夜に雨音を聞くのが好きなんです」
 宗司は静かに微笑んだ。
「へえ、素敵だね。――詩は数学に近いところがあるからね」
「え、どこがですか?」
「イギリスの数学者ハーディーの言葉なんだけど、『数学者の思考様式は、画家や詩人のそれと同じように美しくなければならず、そのアイデアは、色や言葉と同じように調和を形作らなければならない。美は、なににも優先する試金石しきんせきである。見苦しい数学がこの世で永遠に命を保つことなどありえない』と言っていたんだ。数学もある意味美を追求する学問だとぼくも思うから」
「数学って奥が深いんですね」
「まあ、川村は文系だから、あんまり数学に興味なんてないだろうけど」
「そんなことないです。……正直、数学のことは疎いですけど、今の言葉に数学者の美意識の高さを感じます。たしかに詩と同じですね」
「だろ?」
 宗司は悪戯っぽく笑った。不意打ちを受けたように咲希子の胸が高鳴った。
「わたし、数学と国語なんて対極にある学問だと思ってたんですけど、そうでもないんですね」
 宗司と自分が思いがけない近い距離にいると知り、咲希子の気分が高揚した。
「こういう感動に出会えることが勉強をする楽しみのひとつだとぼくは思うんだ」
 咲希子も笑顔で頷いた。
 それから十分ほどして雨が止んだので、咲希子たちはカフェを後にした。
 二人で並んで歩いて駅に向かいながら、咲希子はどうしよう、と思った。
 ——わたし、やっぱり先生のことが好きだ。
 高校時代の憧れに近い想いではなく、真剣にそう思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?