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【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「4」

【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「1」|悠木美羽 (note.com)
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 それから修学館で会っても宗司とは挨拶を交わす程度の関係に戻ってしまった。すれ違ったあと、こっそり後ろを振り返っても、宗司がこちらを見てくれることはなかった。楠木先生に大量の仕事を押し付けられても、咲希子を助けてくれることもなくなった。谷口さんはそのことに気づいているようだったけれど、何も言わなかった。
「……馬鹿ね、咲希子ったら」
 ことの顛末てんまつを聞いた花菜は呆れた声で言った。
「そんなの、向こうに気があったからに決まってるでしょう? でないとキスなんてしないわよ。あんまりあんたが警戒心がなさすぎるからイラついたんじゃないの?」
「……でも先生、もうわたしと二人で会う気ないみたいだった。今となったら、先生の気持ちなんてよくわからないよ」
 花菜はため息をついた。
「馬鹿と鈍感って紙一重だよね、ほんとに。でも、あの先生も何考えているんだろうね。なんか理解不能って感じ」
 落ち込む咲希子に花菜は言った。
「まあ、終わったことは忘れて、次行こう、次!」
「……次って?」
「決まってるでしょう。失恋の痛手を癒すのは新しい恋だけよ。ね、明日、うちのサークルの飲み会に来なさいよ。祝日だから、バイト休みでしょう?」
「……うん」
 東京に来てからはずっとバイトが忙しかったのと、お金に余裕がなかったので、咲希子は飲み会に参加したことがなかった。でも、お酒が飲みたい気分だったので頷いた。


 

翌日の夕方、咲希子のアパートにやってきた花菜は、咲希子にばっちりメイクを施してくれた。そして、咲希子の手持ちの服を見比べて、可愛い感じに仕上げてくれた。
「よし、行こう」
 花菜のサークルは、カフェ巡りだった。なのになぜ飲み会があるのか咲希子は不思議だったが、結局は、男女が出会いを求めるための場だと言われて納得した。安さが自慢の居酒屋に二十人ばかりの男女が集まった。
「見かけない子だね。誰?」
 知らない男の子に訊かれ、花菜は友達、と紹介した。
「この子、彼氏募集中だから」
 花菜にそんなことを言われ、咲希子は恥ずかしくなった。だが、宣伝効果は抜群だったようで、咲希子の近くには様々な男の子が集まった。
「名前は?」
「川村咲希子です」
「学部は?」
「文学部の日本文学科」 
 咲希子はカクテルを飲みながら答えた。あっという間にグラスを空にしたので、周囲は盛り上がって、もっと飲めとはやしたてた。飲み放題のコースだったので咲希子は次々にお代わりをした。本当はそんなにお酒が強いわけではなかったけど、飲まずにはいれなかった。自分の頭を占めている宗司の面影を一刻も早く消し去りたかった。一時間くらいすると、花菜に電話がかかってきたので、外に出ていった。五分ほどして戻ってくると、「ごめん。彼氏が具合悪いみたいで……」と言った。咲希子は「早く行ってあげなよ」と花菜を送り出した。花菜は申し訳なさそうにしていたけれど、咲希子はまったく気にしていなかった。しゃべりかけてくる男性陣に適当に相槌を打っていると、そのうちの一人が、「このあと二人でふけない?」と言ってきたので「いいよ」と頷いた。それから三十分くらい過ぎると、咲希子は吐き気がこみ上げてきてトイレに立った。個室に入ると、便器の中に吐しゃ物を吐いた。完全に飲みすぎだった。何度も吐きながら咲希子は泣いた。あとからあとから涙がこみ上げてきて、宗司のことを想いながらこんなところで吐いている自分が情けなくて涙が止まらなかった。それから飲み会の席に戻って、また限界を超えて飲んだ。そしてトイレで吐くを繰り返した。咲希子の異様な姿に引いたらしく、男性陣に声をかけられなくなったが、正直、どうでもよかった。幾度目かわからないトイレに向かうと、吐きながら、咲希子は気を失った。



 気が付くと見知らぬ部屋で寝ていた。
 古いアパートのベッドの上にいた。起きようとすると頭がガンガンと鳴って激痛が走った。咲希子が顔をしかめると「大丈夫?」と聞いたことのない声に話しかけられた。
「え、誰?」
 驚く咲希子に、たぶん大学生だろう。咲希子の顔を覗き込みながら知らない男の子が笑った。
「君が飲んでいた居酒屋で働いていたバイトだよ、川村さん」
「どうしてわたしの名前知ってるの?」
「一応、君と同じ大学の三年生だから。山岸やまぎし先輩って知ってるだろ?」
「あ、花菜ちゃんの彼氏……」
「そう。いつもお世話になってるから、君のことも知ってた」
「ここどこ?」
「俺のアパート。君、居酒屋のトイレで倒れてたんだよ。うち近いから連れて来たんだ」
 咲希子は反射的に飛び起きた。宗司の警告を思い出していたからだ。
「お世話になりました。ごめんなさい、わたし帰るね」
 急いでベッドから降りようとすると、止められた。
「始発までまだ時間あるからいなよ」
「……でも」
 警戒する咲希子に男の子は笑った。
「心配しなくても何もしないって。俺、レポートあるから寝てて」
 男の子は邪気のない笑顔でそう言うと、勉強机の前に座った。この人なら信用しても大丈夫そうだと思った。それにもし何かあっても、そのときはそのときだと居直る気持ちがあった。
 咲希子はベッドに再び横になった。
 キーボードを打つ音だけが部屋に響いていた。
「……お水もらっていいかな?」
「ああ、うん」
 男の子は、勉強机の前から立ち上がると、コップに水を注いで持ってきてくれた。起き上がって手渡されたお水を飲んでいると、男の子が尋ねた。「何か嫌なことでもあったの?」
「え?」
「いや、すごい飲み方してたから、ずっと気になっていたんだ」
 黙り込む咲希子に、男の子が「失恋?」と訊いた。咲希子は頷いた。男の子が苦笑した。
「まあ、そりゃ、飲みたくもなるよね。俺も最近彼女と別れたばっかりだから、気持ちわかるよ。ただ、俺、酒飲めないから、感情のやり場が見つからなくて困ったけど」
 咲希子は笑った。
「飲めないのに、居酒屋で働いているの?」
「働いているからって、別に俺が飲むわけじゃないから」
「どんな人と付き合ってたの?」
 つい興味がわいて聞いてしまった。
 咲希子が質問すると男の子は困ったように頭をかいた。
「同級生だよ。結構美人で自慢だった。けど、俺がバイトで忙しくしている間に、寂しいからって浮気されちゃってさ。いくら会えなかったからって、俺の事情も考えずに、そういう不誠実な真似するのはちょっとどうかと思うって言ったら、自分は寂しいのを我慢していたのに、説教されたらうんざりするって言われて振られちゃってさ」
 よく見ると男の子は整った顔立ちをしていた。彼でも振られることがあるのだと思うと不思議だった。でもそこで、宗司も名瀬先生に振られたと言っていたことを思い出し、また宗司のことを考えている自分に嫌気がさした。「そういえば、川村さんのフルネームは?」
「川村咲希子だよ」
「俺はかじ賢太けんた。よろしく。ねえ、さきこってどんな漢字書くの?」 
 いきなり呼び捨てにされて驚いたけど、賢太の呼び方は自然だった。たぶん、それなりの数の女の子と付き合ってきたのだろう。 
「花が咲くに希望の希に子供の子だよ」 
「ふーん、いい名前だね」
 賢太はふいに訊いた。
「川村さんの好きな人はどんな人だったの?」
「……バイト先の人」 
 咲希子は多くは語らなかった。自分だけ聞いておいて身勝手だと思ったが、これ以上、誰かに宗司の話をしたくなかった。レポートを終えた賢太は咲希子のために味噌汁を作ってくれた。椀を口に含むと温かい液体が胃に優しく溶けていった。 
「ありがとう」
 始発の時間になったので、玄関先で咲希子がお礼を言うと、賢太は「気にしないで」と言った。それからこう付け加えた。
「もっと自分を大切にしなよ」
 そう言われても、自分を大切にすることがどういうことか咲希子にはわからなかった。咲希子は笑った。 
「言ってることが学校の先生みたいだね」 
「ああ、俺、教師目指してるから。小学校のだけどね」 
「そうなんだ。わたしも教職取ってるんだ」
「知ってる。川村さんと同じ講義取ってたことあるから」 
 賢太と別れてアパートを出た。場所はあの居酒屋のあったすぐ近くだったので、道に迷うことはなかった。電車に揺られながら時間を確認すると朝の五時過ぎだった。塾の仕事は夕方からなので、宗司はもう眠っているのだろうかと考えながら、咲希子は電車の窓から夜明けの空を眺めた。



 その日の講義は午後からだったので、咲希子はお昼まで眠った。賢太にお味噌汁を作ってもらったおかげか、二日酔いは幾分ましになっていた。お酒を飲んだせいか吐いたせいかわからなかったが、宗司に距離を置かれたときの絶望的な気持ちはいくらかましになっていた。咲希子はお昼を軽く食べると大学に向かった。そして講義を終えてから、いつものようにバイト先の塾に足を運んだ。ノートパソコンに生徒の成績を入力していると、受付で「すみません」と呼ばれた。咲希子が立ち上がってカウンターに行くと、制服姿の女の子を連れた若い男の子が立っていた。咲希子はあっと声をあげた。男の子は賢太だった。
「あ、川村さん」
「え、どうして?」
 驚く咲希子に、向こうも同じようにびっくりしていた。
「いや、妹が来年受験生で、ここの塾に入りたいって言うから来たんだ」 
 女の子が不思議そうに賢太を見た。 
「お兄ちゃんの知り合い?」
「同じ大学の同級生なんだ」
 すると女の子はにやっと笑った。
「本当にそれだけ?」
「それだけだよ。変な詮索するな」
 賢太は咲希子に向き直った。
「ここの数学の授業が評判がいいって聞いたから。こいつ数学が苦手だから」 
 咲希子は頷いた。 
「わかった。じゃあ、こちらの用紙にご記入をお願いします」 
 咲希子は事務的な口調で紙とボールペンを差し出した。賢太は男らしい文字で梶紘子ひろこと名前を書き自宅の住所もさらりと書いた。賢太がお金を払おうとしたので、咲希子は言った。 
「体験入学もできるけど……」
「体験入学?」
「実際に入塾して思っていたのと違ったとならないときのために実施してるの。あと五分くらいで授業が始まるよ」
 賢太は妹を見た。 
「だってさ。紘子、どうする?」
「受けたい!」
 咲希子はちょっと待ってくれるように頼むと、講師たちが待機するデスクに近づき、宗司に声をかけた。
「白石先生、今、数学の体験入学を希望する生徒が来ていますが、受け入れても構いませんか?」
「ああ」
 宗司は咲希子の目を見てはっきりと頷いた。いつもと同じ穏やかな笑顔が返ってきたので、普通に接することができたことに咲希子はほっとしながら受付に戻った。 
「じゃあ、三階の三〇一号室に上がってください」
 紘子は、階段を登って教室に向かった。
「ありがとう」
 賢太にお礼を言われて咲希子は首を振った。
「これが、わたしの仕事だから」
「そっか」
 賢太はなぜかちらっと視線を咲希子の後ろにやると、すぐに顔を戻した。「終わるまでどのくらいかかるかな?」
「五十分だよ」
「じゃあ、時間、潰してくるよ。終わるころ迎えにくるから」
 咲希子は手を振って賢太を見送った。 
「川村さん、そろそろ休憩に入ったら?」
 谷口さんに言われ、咲希子は頷いた。
「はい。わかりました」
 咲希子は財布を持って外に出た。給料日前だし、コンビニでおにぎりでも買おうかと思っていると、背後から声をかけられた。
「川村さん」
 振り返ると賢太が立っていた。
「梶君、どうしたの?」
「どうやって時間を潰そうかと思ってたら、たまたま川村さんの姿を見つけたから声をかけたんだ」
「この間はありがとう」
 咲希子は頭を下げて礼を言った。
「いや、いいよ。大したことしてないから。それより、よかったら一緒にご飯食べない?」 
 咲希子は少しだけ迷うと、頷いた。
「迷惑じゃなければ」
「迷惑なら声なんてかけないよ。一度、ちゃんと話してみたかったんだ」
 咲希子たちは駅前のパスタ屋に移動した。席を確保して、咲希子はカルボナーラを賢太は厚切りベーコンのペペロンチーノを注文した。
「妹……紘子ちゃんだっけ? 受験だなんてこれから大変だね」
「ああ、あいつ去年まで遊んでばっかいたんだけど、急にやりたいことができたらしくって、勉強頑張るって言い出したんだ。おかげで、俺の財布が痛むことになるんだけどね」
「え、梶君が塾代出すの?」
「うん。うち、あんまり裕福じゃないから。俺は五人兄弟の一番上だから、こういうときは使われるんだ」
「そうなんだ。いいお兄ちゃんなんだね」
 賢太は照れくさそうにしている。
「川村さんは、独り暮らし?」
「うん」
「出身は東京?」
「いや福岡だよ」
「そっか、じゃあ、親も仕送り大変だね」
 咲希子は頭を振った。
「ううん。うちも経済的に余裕がないから、学費と生活費は全部、奨学金とバイトでまかなってるんだ」
「へえ、偉いな。川村さんの親も、きっと誇らしい思いをしているだろうね」
 咲希子は曖昧に笑った。実家とは半分縁を切っているようなものだと思っていた。咲希子のことを誇らしいなどとあの両親が思うはずもない。でもそんなこと会ったばかりの賢太に言えるはずもない。
「川村さんの元カレって、もしかして塾の講師?」
「え?」
 咲希子は戸惑った。宗司は咲希子の元カレではないからだ。二人きりで数回会っただけで、キスはしたけど、付き合った事実はない。
「さっき俺と川村さんが話してたとき、ちらってこっちを見ている人がいたから、あの人かなって。ほら、眼鏡をかけた人」
「まさか」
 咲希子は苦笑した。宗司が自分のことを気にするはずがない。
「やだな。わたし、振られたんだよ。先生がわたしのことなんか見てるはずないよ。たまたま目が合っただけじゃない?」
 咲希子が否定すると、賢太は首を傾げた。
「そう言われるとそんな気もするかな……」
 カルボナーラとペペロンチーノが運ばれてきたので、咲希子たちは食べながら、大学の話をした。不思議だった。基本、男の人が苦手な咲希子が、賢太とは平気で会話ができている。咲希子は休憩時間が終わるので、先に席を立った。この間のお礼におごると言うと、断られた。
「きっちり割り勘でいいよ。俺、こういうのきちんとしてないと気持ち悪いんだ」
 苦いものでも食べたような顔をされたので、咲希子は「わかった」と頷いて、自分の分のお金を払った。
 再び仕事に戻ると谷口さんに訊かれた。
「あの男の子、どういう知り合いなの?」
「大学が同じなんです」
「よさそうな子じゃない。すれた感じもしないし、川村さんとお似合いかも」
「もう、そうやって、なんでも恋愛に繋げるの、やめてくださいよ。梶君は妹の付き添いで来ただけなんですよ」
 谷口さんは肩を竦めて仕事に戻った。
 やがて紘子が体験講習から戻ってきた。
「あの先生の授業、すっごくわかりやすかった。終わりに質問したけど、優しかったよ」 
 喜ぶ妹を見て、賢太は入塾の手続きをして、外に出た。



 三日後、学食で一人でご飯を食べていると、咲希子の前の席に誰かが座った。顔をあげると賢太がいた。 
「久しぶり……ってわけでもないか。いつも一緒の気の強そうな友達は?」「花菜ちゃんなら今日の午後の講義が休講になったから、いないよ。梶君、花菜ちゃんとも知り合いなんだね」
 賢太は咲希子がしょっちゅう花菜とご飯を食べていることを知っているようだった。
「うん。だって彼女目立つだろう? 川村さんと一緒に狙ってる男子、結構いるんだよ。でもいつもは美人の彼女が睨みをきかせているから、近づけないんだ」 
「狙われてる? わたしが?」
「だって、可愛いから。――前の彼氏がダメなやつだったから、山岸先輩の彼女も目を光らせてるって聞いたよ」
 咲希子はびっくりした。男の子から可愛いなんて言われたのは初めてだったからだ。花菜が咲希子に悪い虫がつかないように守ってくれていたことも初耳だった。 
「一人のところなんてめったに見ないから、これはチャンスだと思って声をかけに来たんだ」
「それって、なんだか梶君がわたしに気があるって言ってるみたい」
「みたいじゃなくて、そうなんだよ」
 咲希子は食べていたカレーライスを音を立てて飲み込んだ。
「冗談でしょう?」
「本気だけど?」
 答えに困っていると、賢太が訊いた。
「……まだ、あの先生のこと忘れられない?」 
 咲希子が俯くと、賢太は言った。
「お互い振られた者同士、ためしに付き合ってみない?」
 咲希子は気持ちがまごついた。だが、いつまでたっても宗司を忘れられない自分を吹っ切りたくて、賢太の提案に乗ることにした。
「わかった。じゃあ、梶君と付き合う」
「本当に? やった!」
 賢太は、手を叩いて喜んだ。そして、テーブル越しに身を乗り出すと、咲希子に触れるだけのキスをした。ふっと儚くて一瞬で溶ける雪のように淡いキスだった。
「ちょっと、人前でやめてよね」
「ごめん、嬉しかったから、つい」 
 キスってその人の性格が出るなと咲希子は思った。
 賢太は恐らくそれほど女性に執着しないタイプだ。彼も失恋したばかりのはずなのに、もう立ち直っている。でも、そのほうが気楽だと思った。さっそく賢太はラーメンを食べながら、デートに行く計画を立て始めた。



 それから賢太はバイトのない日は、紘子の送り迎えをするために修学館に現れた。そして、講義の待ち時間の間に、咲希子とご飯を食べて別れるという日々が続いた。何度か、賢太と一緒にいるときに、同じく休憩に入った宗司とすれ違ったのでドキリとしたが、目が合うことはなかった。咲希子は花菜にも、賢太と付き合い始めたことを報告した。
「へえ、よかったじゃない」
 笑顔を見せていた花菜の表情がふと曇った。
「でも梶君って、わたしちょっと苦手なんだよね」
「どうして?」
「悪いやつじゃないんだけど、考え方が潔癖すぎるっていうかきれいごとすぎるのよね。前に梶君と付き合ってた子も、真面目すぎて息苦しいみたいなこと言ってたし……」
 そこで花菜は咲希子に顔を寄せた。
「前に、彼氏が梶君と他の後輩と飲んでたとき、一人の男子がこの間、財布を忘れたふりして、女の子にご飯やホテル代を払わせたって自慢げに話してたの聞いて、梶君、怒って、次の日、その男の子をひっ掴まえて、彼女にお金を返しに行かせたんだ」
「……それっていいことなんじゃないの?」 
 何が悪いのか咲希子にはわからなかった。
「そうなんだけど、普通、そこまでするかな? なんか、自分の価値観から外れた人間は絶対に許せないって感じで、苦手だなって思っちゃったの」「小学校の先生を目指しているって言ってたから、きっと正義感が強いんだよ」
 そこで花菜はため息をついた。
「あんたも、友達より彼氏を率先してかばう女になっちゃったか」
「別にそういうつもりじゃ……」 
 正直、今のところ、賢太のことをどう思っているのか自分でもわからなかった。ただ、宗司に対するように深い思いを抱いていないことは確かだ。「まあ、もう付き合い始めてるんだから、遅いか。とりあえず、続けてみたら? 咲希子が恋に前向きになっただけでもいいことだと思うよ」
 若干不安になりながら咲希子は頷いた。
 なんにせよ、賢太と合う合わないは自分が決めることだと思った。


 五日後の早朝、咲希子が眠っていると、六時前に電話がかかってきた。スマホが震える音で目を覚ました咲希子は、画面を見て、凍り付いた。佳絵からの着信だったからだ。眠気は一気に吹き飛んだ。ぐらついた精神を落ち着けて通話に出ると、佳絵の怒声が耳を貫いた。
『何やってるの? もっと早く出てちょうだい!』
 非常識な時間に電話をかけてきたのは向こうなのに、そのことを気にする様子もなく言った。
「……何の用?」
『母親が電話をかけてきたのに、なんなのその態度は』
 佳絵は鼻でせせら笑うように言うと、用件を口にした。
『翠子が結婚することになったの。子供ができたんですって。それでもうすぐ両家の顔合わせが東京であるから、あんたの家にお父さんと泊まるから』 
 咲希子は息が止まりそうになった。
「……ホテルでも取りなよ。うち、狭いし一人ぶんの寝具しかないよ」
『まあ、本当に冷たい子。せっかく子供に会いに来る親を追い返すつもり?』 
 自分に会いに来るわけではないだろうと言いたかったが、我慢した。咲希子の姉は東京で公認会計士の仕事をしている。咲希子が黙り込んでいると、佳絵は言った。 
『顔合わせにはあんたも出席するのよ』
「え?」
『あんただって東京にいるんだから、当たり前でしょう? まさか、嫌なの?』
 嫌だった。行きたくなかった。佳絵が向こうの両親の前で、またいかに咲希子がダメな子かを力説する姿が目に浮かぶからだ。翠子の株を上げたいから咲希子を誘っているにすぎないことはわかっていた。
『まったく、たった一人の姉の結婚も祝福できないなんて、本当に残念な子』
 スマホ越しに母親のため息が漏れた。咲希子が黙っていると、佳絵が言った。
『とにかく来週には東京に行くから』
 咲希子がなおも渋る様子を見せると、拒むなら、もうアパートを借りる時に保証人にはならないと言われ、受け入れるしかなかった。通話が切れると、もう一度寝ようとしたけど、変な動悸がして、目を閉じても眠りは訪れなかった。

 
 その日は日曜日で、賢太とデートに行くことになっていた。咲希子は寝不足のまま早めに支度をして家を出ると、東京の街をぶらついた。開店したばかりの百貨店で服を見ながら時間を潰した。
 待ち合わせの時間になったので、駅前に行くと、賢太が待っていた。
「あれ、もう来てたの?」
「うん」
「待たせちゃったかな」
「ううん。わたしが早めに来すぎたの」
 賢太の顔に笑顔が広がった。
「俺と会うの、そんなに楽しみにしてくれてたんだ」
 違ったが、本人が嬉しそうなのでそういうことにしておいた。賢太は道の途中の雑貨屋で、可愛らしいコップと茶碗を購入した。何に使うのだろうと咲希子が思っていると、「これは川村さん専用だから。俺の家に置いておく」と言われ、ちょっとだけ照れくさくなった。それでも朝の出来事が咲希子を憂鬱にしていた。気を抜くと佳絵とのやり取りが頭に浮かんできて、咲希子は息苦しくなった。誰かに話を聞いてほしい。……でも一番に聞いてほしい人は今はそばにいなかった。
「どうかしたの?」
 お昼ご飯の最中もぼんやりしていると、賢太に怪訝そうに訊かれた。咲希子は躊躇いながら言った。
「今日の朝、お母さんから電話があって、来週、東京に来るんだって。お姉ちゃんが結婚するから、顔合わせがあるの」
「そうなんだ。おめでとう。久しぶりに家族と会えるなんて楽しみだね」
「……うん」
 咲希子は頭の中を整理した。今、自分は賢太と付き合っている。悩みや相談事があるなら最初に彼に言うべきではないかと思った。賢太は優しい人だ。きっと受け入れてくれるはずだと思い、咲希子は思い切って、実の親とうまくいってないことを打ち明けた。すると賢太は痛ましそうに言った。「そっかあ。川村さんも大変なんだね」
 デートの帰り道、賢太に慰めるように肩を抱かれ、この間のキスよりも親密な触れ方に咲希子は少しだけ緊張した。
「川村さんのお母さんはどうしてそんな酷いことを言うんだろうね。俺には理解できないよ。俺は川村さんは何も悪くないと思うよ」 
 賢太は道の途中で咲希子を優しく抱きしめた。 
「俺も、五人兄弟の一番上に生まれて、家の中で理不尽な目に遭ったことあるよ。家族ってだけで我慢を強いられる環境なんて不健全だよ。また何かあったらすぐに俺に相談してよ」
「うん」
 それから賢太は咲希子を癒す言葉をたくさんくれた。
 咲希子は賢太の気遣いに安堵していた。



 賢太は毎日、大学の食堂で会うたびに、「大丈夫?」と気づかわしげに咲希子に訊いてきた。咲希子はその気持ちが嬉しくて、「平気」と頷いた。健太がいてくれることを心強く思った。紘子の塾の送迎をする日も、一緒にご飯を食べて、楽しい思い出話をして咲希子の心をほぐした。咲希子は賢太の言葉を聞くたびに心が温かくなった。
 翠子の結婚相手との顔合わせの日、咲希子は紺のワンピースを着て、空港に両親を迎えに行った。
「あー、苦しかった。飛行機って窮屈ね」
「翠子のためだ。しかたないさ」
 佳絵の言葉に、咲希子の父のしげるが嬉しそうに笑った。 
 二人となるべく会話を交わさないようにしていると、佳絵が「喉が渇いた」と言ったので、近くの喫茶店に入った。よく冷えたアイスティーを飲みながら、佳絵は咲希子を見た。
「あんた、相変わらず辛気臭い顔してるのね。言っておくけど、向こうの親に失礼な真似、しないでよ」
 咲希子は無言で下を向いた。
「ほーら、まただんまり。あんたそれ、得意よね」
 佳絵にこれ以上、余計なことを言われたくなくて黙っていたのに、それさえも皮肉を言われてしまった。
 喫茶店を出ると、夕方、顔合わせが行われる銀座の割烹かっぽう料理屋に到着した。
「お父さん、お母さん、いらっしゃい」
 咲希子の姉の翠子が笑顔で姿を見せた。もともと美人だったが、少し見ない間に、翠子は美しさに磨きがかかっていた。そこで、翠子が咲希子の顔を見て驚いた様子を見せた。
「え、咲希子も来たの?」
「……うん。お母さんに呼ばれて……」
 翠子の顔が目に見えて強張った。
「いいじゃないか。一人くらい増えても」
 翠子の婚約者の男性——関口せきぐちとおるが気楽な口調で言った。
「……そうね」
 翠子は冴えない顔色をしながら言った。
 茂が場を和ませるように笑った。
「お前もとうとう結婚か。お父さんも寂しくなるよ。でも関口くんが信頼に値する男でよかったよ。うちに挨拶をしに来たときもびしっと決めてたしな」
「そう。彼、うちの職場でもとっても優秀なの」
 気持ちを切り替えた翠子は自慢げに言った。
「それとね、お母さん。最初に言っておきたいんだけど、絶対に余計なこと言わないでよ。……とくに咲希子をけなすようなこととか」
「そんな縁起でもない話、するわけないでしょう?」
 佳絵が言った。佳絵は先陣を切って割烹料理屋に入って行った。咲希子の顔を見た翠子は小声で言った。
「お母さんが変なこと言わないように見張っててね」
 咲希子は頷いた。
 翠子は佳絵の性格を知り尽くしている。息をするように咲希子の悪口をたれ流す悪癖を知っている。だから不安なのだ。咲希子もできれば欠席したかったが、佳絵の意向に逆らえる者は川村家には存在しなかった。
 座敷に入ると、相手の家族はすでに到着していた。
「この度は、遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
 関口さんの父親が頭を下げたので、咲希子と両親もならった。
「こちらこそご招待いただきありがとうございます。おたくのような立派な息子さんに翠子をもらっていただけるなんて、これ以上の幸福はありません」
 互いに握手を交わした。咲希子も自己紹介をして席の一番下に座った。  
 それから、翠子が会話の主導を握る形で、関口家と川村家は和やかに談笑した。豪勢な料理がテーブルの上に並び、咲希子はそれに口をつけながら、ひたすら自分の気配を押し殺していた。幸い佳絵は翠子の婚約者である関口さんを褒めるのに忙しく、咲希子の悪口を言う暇はないようだった。翠子はにこやかに会話を交わしながら、料理がスムーズに運ばれてくるように気を配っていた。
「……ちょっとごめんなさい」
 途中で具合が悪くなった翠子は部屋の外に出た。そういえば、翠子が妊娠していることを咲希子は思い出していた。関口さんが翠子のあとを追った。関口さんのお母さん――良子よしこさんが言った。
「……まあ、つわりかしら? 翠子さん、無理してたんじゃないの?」
 すると佳絵がテーブルから身を乗り出して言った。
「そうなんです。あの子はいつも我慢して無理をするんです。とっても努力家なんですよ。咲希子と違って……」
 きた、と思った。
 いきなりの悪口に関口さんのご両親は少し困惑している。
「お母さん、お姉ちゃんに言われたこと、忘れたの?」
「ほら、すぐにこうやって生意気な口をきくんですよ。本当に困った子で申し訳ありません」
 関口さん夫婦は、互いに顔を見合わせて、視線を泳がせた。
「咲希子さんは、たしか大学生だったわね。将来の夢なんてあるの?」
 場の雰囲気を壊さないように咲希子は丁寧に答えた。
「はい。高校の国語の教師になりたいと思っています」
「まあ、立派な娘さんじゃありませんか。ねえ、あなた」 
「本当にそうだね。咲希子さんは翠子さんに似て賢そうだし……」
 その会話を佳絵が遮った。
「教師だなんてとんでもない。この子にはそんな大役、務まりませんよ! 本当に昔から、馬鹿で愚図でのろまで、困った子なんです。いつもわたしたちは悩ませて……。ねえあなた」 
 水を向けられた茂がうろたえている。茂は佳絵の気性を知りながら見て見ぬふりをしている人だった。いつも咲希子に対して腫れ物に触るように接している。咲希子はわざと自分の茶碗蒸しを倒した。 
「あ、いけない! 人を呼んでくる。すみませーん」
 咲希子が大声で店員を呼ぶと、すぐに店の人がこぼれた茶碗蒸しを片付けに来てくれた。早く翠子に戻ってきてほしかったが、願いは叶わなかった。「本当に愚図な子」
「……お母さん!」
 咲希子が怒鳴ると、佳絵に睨まれた。
「あんたは黙っていなさい」
 そして、佳絵は関口さん夫妻に言った。
「本当にこの子は、たいしたこともできないんですよ。大学だって、立信大っていう、三流大学ですし……」
 関口さんのお父さんが途端に眉を逆立てた。
「——うちの息子も立信大卒ですが?」
 その場が水を打ったようにシンと静まり返った。佳絵の顔から血の気がさっと引いた。しばらくすると関口さんのお父さんが言った。
「うちの息子はどうやらお宅のお嬢さんには釣り合わないようだ。旧帝大卒のお嬢さんなんて分不相応ですからな」 
 良子さんも、佳絵に敵意を向けている。
「立信大の何が悪いのか、わたしにはわかりませんが? うちは立派な大学を卒業した息子を誇りに思っています。――失礼します」
 関口さん夫婦が席を立ったとき、ようやく翠子たちが戻ってきた。
「どうかなさったんですか?」
「——この結婚話はなかったことにしてもらう」
 関口さんの父親が翠子に言った。翠子の視線がぱっと咲希子に向けられる。咲希子が頷くと、事態を察した翠子の顔がみるみる青ざめていった。
「申し訳ありません。母が失礼なことを言って、本当にすみません!」
 佳絵は唇を噛んだまま下を向いている。翠子がいくら謝罪しても関口さん夫妻の機嫌の悪さは直らず、支払いを済ませて帰っていった。
「お母さん、もういい加減にして!」
 翠子はその場に泣きくずれた。
「だから嫌だったのよ。顔合わせなんて……っ!」
「……翠子、ごめん」
 顔合わせを強行したという関口さんがしゅんとうなだれている。翠子は泣きながら関口さんと一緒に帰って行った。咲希子と両親も無言で店を出た。咲希子のアパートに戻ると、佳絵はひたすらおろおろしていた。佳絵は自慢の娘に怒鳴られたのがよっぽどショックだったようだ。
「あなた、どうしましょう」
「どうしようって言われてもな……。とにかくお前が謝るしかないだろう?」
 途端に佳絵が咲希子を見た。
「咲希子、あんたがなんとかしなさい」
「は?」
「あんたが立信大になんて行くから悪いのよ。翠子に恥をかかせないでってあれほど言ったのに!」
「余計なことを言ったのはお母さんでしょう⁉」
 すると佳絵が咲希子の襟首を締め上げた。
「生意気なこと言わないで! すぐに関口さんのご両親に頭をさげてきてちょうだい! さあ、早く!」
 咲希子はお出かけ用のバッグを持ったまま部屋から追い出されてしまった。関口さんの家に行こうにも住所も連絡先もわからない。翠子に電話をしたけれど、繋がらなかった。きっと今ごろまだ泣いているのだろう。当り前だ。結婚が破談になったのだから。今度は賢太に電話してみた。今日のことを心配していた賢太はすぐに通話に出た。
『どうしたの?』
 咲希子がその場で起きた一部始終を話すと賢太はスマホの向こうでため息をついた。
『どうしてお姉さんのために頑張ってあげられなかったの?』
 これまでとは打ってかわって呆れたように言われ咲希子は動揺した。
「え?」
『たしかに優秀なお姉さんがいるのは辛いだろうし、川村さんが劣等感を持ってしまうのも仕方ない気もする。だから親を悪く言って溜飲を下げたいんだろうけど、川村さんが結婚して母親になるときには、親の気持ち、少しは理解できるんじゃないのかな?』
 賢太の返答に咲希子は悄然とした。彼が何を言っているのか、すぐには飲み込めなかった。自分は別に姉に対して劣等感など抱いてはいなかった。たしかにそういう時期もあったけど、もうとっくに乗り越えている。自分は自分と思えている。それに自分が結婚して親になったとしても佳絵の気持ちを理解できるとは到底思えなかった。
 ――わたしも母親になったら、お母さんみたいになるの?
 咲希子はぞっとした。
「どうしていきなりそんなこと言うの? 前はわたしの気持ち、わかるって言ってくれたじゃない」
『あれは川村さんが望んでそうな言葉を言っただけだよ。川村さんがあんまりお母さんとの話を誇張するから、川村さんが顔合わせで頑張れるように言ったんだ。家族ってそうやって支え合うものじゃないの?』
「なに、それ」
 咲希子は愕然とした。賢太は今まで咲希子が嘘をついていると思っていたのだ。
「梶君にうちの家の何がわかるの?」
『川村さんの名前を最初に聞いたとき、すごくご両親の愛情を感じたんだ。川村さんのご両親が川村さんを大切にしているのが伝わってきたんだよ。川村さんのお父さんもお母さんも川村さんが心を開いてくれる日をきっと待っているはずだよ』
 咲希子は黙り込んだ。自分の中に言葉にできない鬱屈がたまるのを感じた。賢太があまりに真面目くさった声で言うので、自分が間違っているのではないかと思い始めて、けれど、心の内側で自分を責めるとどんどん息苦しくなっていった。
『とりあえず、お姉さんにはきちんと謝りなよ』
 賢太が話の通じない宇宙人に思えて、咲希子は無言で通話を切った。


 

 スマホの充電が切れそうになっていたので、咲希子は慌てた。今の自分に帰る場所はない。財布のお金もあまり残っておらず、今月はお金に余裕がないのでどこかに泊まることもできない。どうしようかと迷っていたとき、家の鍵のホルダーにぶらさげていた塾の鍵が目にとまった。咲希子は残業が多いので鍵を預かっているのだ。あそこなら仮眠室がある。一晩くらいならどうにかなるだろうと思って足を向けた。定期を使って電車に乗り、修学館に行くと、休日の夜なのに明かりが付いていて、誰かがいるのがわかった。扉を開けて中に入ると、宗司がいた。宗司は、机に突っ伏して眠っていた。声をかけるべきか迷っていると、宗司が苦しげなうめき声をあげた。うう、とか、ああ、とか言いながらうなされている。その姿があまりに異様に思えて、咲希子は宗司の席に行って、その肩を揺すった。二度肩を揺らすと宗司ははっと目を覚ました。こめかみに汗が流れ落ちている。
「……川村か」
 咲希子は躊躇いながら訊いた。
「うなされていましたよ。どうかしたんですか」
「ちょっと夢見が悪かったんだ。それより川村こそ、休みの日にどうしたんだい?」
 咲希子はうなだれながら言った。
「今、父と母が東京に出て来ていて、わたしの家にいるんです。ちょっと事情があって帰れなくなったから、ここに泊まろうと思って……」
 詳しい話を聞くこともなく、宗司は机に置いていた自分の荷物から鍵を取り出すと咲希子に差し出した。
「だったらぼくの家を使いなさい。今日はぼくがここに泊まるから」
「え、でも……」
「ここは女性が一人で泊まれる場所じゃない。いいから使いなさい。他に行くところ、ないんだろう?」
 数秒の逡巡の末、咲希子は頭を下げた。
「……ありがとうございます」 
 咲希子はお礼を言って鍵を受け取ると、塾を出た。宗司の家に向かいながら、申し訳ない気持ちになった。距離を置かれているのに宗司に気を遣わせていることが心苦しかった。道に迷いながら宗司の暮らすアパートに着くと、鍵を開けて中に入った。部屋は前に来たときより少しだけ散らかっていた。マグカップとお皿がシンクに置かかれたままだし、脱いだままのシャツがベッドサイドに放置されていたりもした。咲希子はローテーブルの上に置かれていた缶ビールの空き缶を洗って、資源ごみとして分別している袋に入れた。そしてウェットティッシュでテーブルの上を拭き、洗濯物を入れるカゴの中にシャツを置いた。ようやく落ち着ける場所に来ると、お腹が空いてきた。スマホで検索すると近くにコンビニがあることがわかったので、買い物に行くことにした。スマホの充電器と着替えとおにぎりを買うと、財布のお金はほとんどなくなってしまった。アパートに戻って一人味気ない食事を取りながらテレビを観たが、面白いと思える番組はひとつもなかった。途中で賢太から電話がかかってきたけど、出る気力がなくて留守電に切り替えた。これからどうすべきかぼんやりと考えていると、花菜から電話がかかってきた。
『梶君から彼氏に連絡があって、咲希子と連絡が取れないって心配しているらしいんだけど……』
 ため息をついた咲希子は、賢太とのやり取りをそのまま花菜に打ち明けた。あまり親とうまくいっていないことは前に少し話してあったので、すべてを聞いた花菜は憤慨した。
『何それ? 咲希子のこと嘘つきって思ってたわけ? 信じらんない! 咲希子のこと何も知らないくせに!』
 花菜が一瞬の迷いもなく咲希子を信じてくれたことにほっとした。
 彼氏を通して叱ってもらうと花菜は言ってくれたが、咲希子は落ち着いたら自分で話すと言って断った。通話を切ると、眠くなってきたので、咲希子は床に毛布を敷いて横になった。宗司のベッドを使うのは厚かましい気がしたのだ。疲れていたので、咲希子はすぐに眠りに落ちた。

 

 翌朝、スマホのアラームの音で目を覚ました。今日は一限から授業が入っている。咲希子はシャワーを浴び、洗面所で顔を洗うと、学校に向かった。ワンピース姿のまま大学に現れた咲希子を見て花菜は目を丸くした。
「咲希子ったら可愛い恰好しちゃって」 
 昨日、どこに泊まったのか詮索されたくなくて、咲希子は曖昧に笑った。「……ちょっとね。悪いんだけど、教科書とか見せてもらっていいかな?」

「いいけど……」

 花菜はそれ以上、何も訊かなかった。授業中、幾度も佳絵から電話がかかってきたので、電源を落とした。大学が終わると、いつものようにバイト先の塾に向かった。
 そっと宗司の席に近づくと、咲希子は「ありがとうございました」と小声で言って鍵を返した。宗司は無言で鍵を受け取った。眠れなかったのか、宗司の顔には隈が浮いていた。心配しながらも、咲希子は仕事に没頭した。夜の八時過ぎ、修学館のドアが乱暴に開かれる音がした。咲希子が驚いて顔を上げると、思いがけない人が立っていた。
「……お母さん」
 顔が青ざめるのを感じた。どうして咲希子のバイト先の場所がわかったのだろうか。考えて、アパートの部屋に塾のパンフレットを置いていることを思い出した。
「咲希子、ちょっと来なさい」
 佳絵がどすのきいた声で叫んだ。職員の視線が自分に集まるのを感じながら、咲希子は黙って従った。外に出ると、佳絵が問いただした。
「きちんと関口さんに謝りに行ってくれたの?」
「……だって、家も連絡先も知らないだから、無理だよ」
 すると佳絵は咲希子の襟首を締めた。
「本当に役に立たない子ね! いったい昨日の夜は何をしてたの⁉」
 咲希子が沈黙していると佳絵は咲希子の身体を地面に叩きつけた。
 そして、鞄で咲希子を殴り始めた。
「本当にあんたったら使えないんだから! あんたなんか産むんじゃなかった!」
 じゃあ、どうして産んだんだと言いたいのはこちらの方だった。抵抗する気力もなくなって、佳絵の罵詈雑言と殴打の嵐に耐えていると、塾の玄関が開き、誰かが出てきた。
 次の瞬間、佳絵の腕を誰かが掴んだ。
「……近所迷惑ですから、やめてもらえませんか」
 そう静かに言ったのは宗司だった。
「あなたには関係ないでしょう⁉」
 佳絵は宗司の顔を覚えていないようだった。鼻息を荒くする佳絵に宗司は言った。
「これ以上、暴力を振るわれるのなら、警察を呼びますよ」
 佳絵がはっと息を呑んだ。佳絵が強気でいられるのは家族の中だけなのだ。警察の名を出され、ひるんだ佳絵は鞄を抱きしめながら夜の闇に消えていった。宗司は咲希子の腕を掴み、立ち上がらせてくれた。
「困ったお母さんだな。怪我はないか?」
「……大丈夫です。迷惑をかけてすみません」
「これ以上、うちの塾の前で騒がれたら困るからね」
 宗司は気楽な口調で言った。
 そして、咲希子を連れて、修学館の奥にある談話室へと入っていった。咲希子を椅子に座らせると、宗司は備え付けのコーヒーサーバーから注いだコーヒーを渡しながら訊いた。
「何があったの?」
「わたしは大丈夫ですから、心配しないで、仕事に戻ってください」
 宗司は苦笑した。
「塾長が言ったんだよ。何か事情があるなら、相談に乗ってやれって」
 宗司の声を聞くとほっとして涙が出そうになった。咲希子はこれまでの経緯を宗司に語った。
「そうか。なるほど。向こうのご両親は息子の大学をけなされて頭にきたんだね」
「……はい」
「お姉さんと連絡は取れないの?」
 咲希子は首を振った。翠子には何度も電話をしているが、繋がらないのだ。
「お姉さんの名前は?」
「……川村翠子です」
 宗司は自分のスマホを操作して、何かを調べ始めた。五分もしないうちに、宗司はとある画面を見せた。
「お姉さんの婚約者という人はこの人かな?」
 宗司が手にしたスマホの画面には、翠子のSNSが映っていた。そこには関口さんと撮った写真も載せられていた。
「この人です。間違いありません」
「お姉さんのフォロワーに関口良子さんの名前がある。たぶん、お姉さんの婚約者のお母さんじゃないのかな? そこから直接連絡をしてみたらどうかな?」 
 咲希子は言われるままに自分のスマホを操作して、良子さんのSNSにダイレクトメッセージを送った。この間の詫びと連絡が欲しいと書いて連絡先を添えると、数分で電話がかかってきた。
『咲希子さんで間違いないかしら?』
「はい。このたびは本当にすみませんでした」
『もしかして、お母様に何か言われたの?』
 咲希子がはっと息をのむと、良子さんは苦笑した。

『そう。けど、わたしたちも大人げなかったわ。いきなり破断なんて言ったら翠子さんも傷つくわよね。でもあのときは、本当に許せなかったの。咲希子さん、あなたのことも……』
 咲希子が失礼な真似をしたという意味にしか取れなくて、ひたすら恐縮していると、良子さんは違うのよと苦笑した。
『あなたのお母さんがあんまりにあなたを悪し様に言うから気分が悪くなったの。こんな人と将来縁続きになりたいとは思えなかったの』
 咲希子は必死に言った。
「けど、お姉ちゃんは本当にいい人なんです。努力家で、いつもお母さんのプレッシャーに耐えてきた偉い人なんです。お母さんを許せとは言いません。でもせめてお姉ちゃんのことは認めてあげてくれませんか?」
 良子はため息をついた。
『……そうね。翠子さんとこれから生まれる子供には罪はないのよね。実は主人とも話し合っていたの。翠子さんのご両親と積極的なやり取りをするつもりはないけど、息子と翠子さんの関係は認めてあげないかって』
「本当ですか?」
『ええ。――それとね、咲希子さん』
 神妙な口調で言われ、咲希子は緊張した。
「はい。なんでしょうか」
『あなたは自信を持っていいのよ。お母さんがどう言おうと立信大に入れた自分を誇りに思ってほしいの。あなたは十分頑張っている。わたしは身内としてあなたを誇りに思うわ』 
 咲希子の目からせきを切ったように涙が溢れ、頬を濡らした。「……はい。ありがとうございます」
 電話を終えると、宗司がハンカチを貸してくれた。涙を拭っていると宗司が訊いた。
「解決したのかな?」
「……たぶん」
「なら、よかった」
 立ち上がって仕事に戻ろうとした宗司に咲希子は言った。
「先生、ありがとうございます」
「ぼくのおかげじゃない。川村、君が頑張ったからだよ」
 宗司はいつものように穏やかに笑うと、咲希子の頭をぽんと叩いて部屋から出て行った。 
 一人になると咲希子は改めて思った。

 ——どうしよう。やっぱりわたし、先生のことが好きだ。

 なんだか切なくなって、咲希子は宗司から渡されたハンカチを両手でぎゅっと握りしめた。



 家に帰ると、両親の姿は荷物ごと消えていた。すでに福岡に帰ったようでほっとした。そして翌日、大学で賢太に声をかけられた。
「川村さん、ごめん」
 いきなり頭を下げられ、咲希子はわけがわからなかった。すると賢太は言いにくそうに続けた。
「……昨日、塾の前で見てたんだ。川村さんとお母さんのやり取りを」
 咲希子が黙り込んでいると、賢太は言った。
「あれ、本当に川村さんのお母さん?」
「……うん」
「そっか。俺、すごい勘違いしてたんだね。本当にごめん。岸谷先輩にも叱られたんだ。勝手な決めつけで傷ついている相手を責めるなって。川村さんは俺を信じて事情を打ち明けてくれたのに。……助けてあげられなくてごめん」
 今さら謝られても、咲希子の心には何も響かなかった。
 咲希子が口をつぐんでいると、賢太が話を切り出した。
「もうすぐクリスマスだろう? よかったら、一緒に出掛けない? 罪滅ぼしをさせてほしい」
 咲希子はしばらく考えると謝った。
「……ごめん。悪いんだけど、梶君とはもう付き合えない」
「俺のこと、許せない?」
 咲希子は頭を振った。正直、許す、許さないなんてどうでもよかった。
「違うの。わたし、やっぱりあの人のことが忘れられないの。だから、このまま付き合うことはできない」
 真正面から賢太を見ると彼はしょげた顔をしていた。
「そうだね。とっさに川村さんをかばったあの人には敵わないよな」
 賢太は悲しげに言うと、咲希子の前から去っていった。


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