宗教の有用性を示すための自己啓発

最近メタ自己啓発本ばかり読んでいるが、これが一番面白かった。

本書は明治以降の日本における、修養の歴史を紐解いたものである。「修養」は聞き慣れない言葉だが、要するに自己啓発と同じ意味だと思っておけばだいたいあっている。本書では以下のように説明されている。

修養とは、主体的に自己の品性を養ったり精神力を鍛えたりすることで、人格向上に努める思考や行為をさす。自分の努力によって能動的に自己のより良い状態を目指そうとする「自分磨き」の志向と言ってもよい。

大澤 絢子. 「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる (NHKブックス) (Japanese Edition) (p.11). Kindle 版.

従って本書は日本の自己啓発の歴史を書いた本であるとも言える (なのでこのnoteでは自己啓発と修養を区別しない)。我が国において自己啓発の文化はどのように発展し、浸透してきたのか。本書を読めばそれが分かる。

とはいえ、自己啓発の歴史に興味がある人はそれほど多くはないと思う。だが自己啓発の歴史を知れば、ある一つの疑問に対する答えを知ることができる。それは「自己啓発って宗教っぽくね」という疑問だ。

5月にこんな記事を書いた。

「ビジネス書100冊を元に書かれた本」と「自己啓発書100冊を元に書かれた本」を読んで、一つの「教え」を語るという記事だ。この2冊を読んでいて、「やっぱり自己啓発って教えも展開も宗教っぽいな」と思い、『完全教祖マニュアル』を参考に構成を決めた。

俺は自己啓発が宗教と似ているのは、収斂進化的な要素が大きいのかと思っていた。どちらも「教え」を授ける構図であるわけだし、願いを叶えるために存在している。だから自然と似たような流れをたどるのか、と。

これは間違いだった。日本における自己啓発は宗教家からスタートしている。

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