見出し画像

東大生ラッパーと大雑把につかむ世界史【第5章】

 こんにちは!東大生ラッパーの法念です。前回は「第4章」で「東西が輝く時代」の話をしましたね。(目次はこちら)
 今回は、9~12世紀の様子をみていきます。この講座では、この時代を、「それぞれが自立する時代」と呼ぶことにしますよ!ではいきましょう。

それぞれが自立する時代(全体像)

 この時代は、東西の大帝国(イスラーム帝国と唐帝国)が解体に向かう時代です。それにより、周辺の国々は、自分たちの制度や文化をゆっくりと育む余裕を得ました。各地がそれぞれ、近代につながる国のかたち、特徴を育んだのです。それは、イスラーム帝国や唐帝国が解体した後の地域でも同様でした。詳しくはそれぞれの世界のお話で確認しましょう!

2020年04月09日21時29分36秒_page-0001

それぞれが自立する時代(各世界)

 東アジア世界は、唐帝国、そしてウイグル帝国とチベット帝国が相次いで解体し、いくつもの国が入り乱れる時代となりました。「ぐちゃぐちゃの時代」と似ていますね。その後という国が統一しますが、宋は中央ユーラシア世界の国に常に圧迫されており、やがて南の方に逃げるように移動しました(南宋といいます)。
 一方で、南宋が成立したことで、東アジア世界の南方は非常に発展しました。農業が発展したことで商工業も栄えました。経済発展を背景に中国商人は海の道にも積極的に乗り出し、東南アジア世界や南アジア世界などと行き来しました。
 周辺の国々も独自の文化や制度を整えます。日本が遣唐使を廃止し、国風文化を育むのはまさにこの時代ですよ!
 
 中央ユーラシア世界は、キタイ西夏という帝国が成立し、宋を圧迫しました。その後、という帝国が登場し、キタイを滅ぼします。その後は金と西夏が宋を圧迫する状況になるわけです。

 東ヨーロッパ世界について。地中海世界のローマ帝国が東西に分かれて以降、ローマ帝国が国教としたキリスト教も大きく東西に分かれました。その分裂が決定的になったのがこの時期です。東側のキリスト教を「正教」、西側のキリスト教を「カトリック」といいます。ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは「正教」の中心ということになります。
 この時代のビザンツ帝国は、正教とギリシア文化をもとに、独自のビザンツ文化を育みました。東ヨーロッパに広がっていたスラヴ人にもキリスト教が浸透しはじめ、特に東側のスラヴ人には正教が浸透しました。ビザンツ文化や正教が特徴的な世界を「東ヨーロッパ世界」と呼ぶことにします。

 西ヨーロッパ世界について。東ヨーロッパ世界に対抗する形でできたのが西ヨーロッパ世界です。正教の中心はコンスタンティノープル、カトリックの中心はローマです。ローマ教会の長を「教皇」といいます。東の正教には、東ローマ帝国の後を継ぐビザンツ帝国があり、「ローマ皇帝」にあたるビザンツ皇帝がいました。しかし西は西ローマ帝国が滅亡してしまっているので、そのような政治的な後ろ盾がありません。
 そこでカトリックの教皇は、西ローマ帝国を復活させ、西にもローマ皇帝をたてようと考えました。そこで目をつけたのがフランク王国です。東の正教と張りあえるようにしたかったのですね! フランク王国の王を西ローマ皇帝としたわけです。
 フランク王国はまもなく、西と真ん中と東の3つに分裂します。西フランクが今のフランス、中部フランクが今のイタリア、東フランクが今のドイツの原型です。まさに近代に繋がる国のかたちが出来つつあったわけですね!
 教皇は、新たな「西ローマ帝国」として東フランクを選びました。東フランクはやがて、西ローマ帝国の後を継ぐ国として、「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになります。

 イスラーム世界は、アッバース朝が「イスラーム世界」のほとんどを支配するという状況が崩れました。そのかわり、バグダード以外でも都市文明が発達します。また、イラン系やトルコ系、ベルベル系など、アラブ人以外の民族がたてたイスラーム王朝もたくさん登場し、それぞれの文化が育まれました。

 南アジア世界は、あいかわらず分裂はしていますが、海の道がどんどん発展するなかで、さまざまな国が発展しました。

 東南アジア世界も、同様に様々な国が栄えました。とくに、シュリーヴィジャヤにとってかわったジャーヴァカという国が繁栄しました。農業も発展し、これを背景に独自の文化も栄えました。アンコールワットなどもこの時代に建てられていますよ!


それぞれの「世界」の考え方

 さて、「はじめに」で、現在の地球は、みな同じような「国のかたち」をしているという話をしました。逆にかつての地球上は、それぞれの世界がそれぞれの「国のかたち」をもっていたわけです。
 ここでは、中でも抑えておきたい4つの世界について、「国のかたち」を紹介しますよ!

 東アジア世界は、中華帝国の皇帝が中心の世界でした。皇帝から近い地域は直接支配するが、遠い地域は緩やかに結びつける、という形をとりました。遠い地域の国々は、実態としては独立していますが、形としては皇帝の家臣となっていました。
 それらの国は、使者が皇帝のもとに訪れて、「家臣となる」という儀式をします。貢物ももっていきます。一方皇帝は、大量のお返しを渡し、「支配を任せる」という形をとります。これが近代まで続く東アジア世界の中華帝国のかたちです。

 イスラーム世界は、カリフというリーダーが中心の世界でした。カリフのもとで、イスラームの教えに基づく支配が行われるべき、という理念をもっています。そのようなイスラームに基づく支配が行われる場所を「イスラームの家」とよび、その外側を、異教徒(他の宗教を信じる人々)が争いを繰り返す「戦争の家」と呼びました。
 「イスラームの家」は理念の上では、一つの国(帝国)であるべきと考えられました。イスラーム世界は、最初はこのような状況をほぼ保つことができました。それが解体に向かうのが「それぞれが自立する時代」です。
アッバース朝がカリフを握っている状態は変わりませんが、それは形だけ。他の国々は、「カリフから統治を任された」という形をとって実質的に各地の支配を行いました。東アジア世界と似ていますね! そのときによく使われた称号が「スルタン」です。各地の王が「カリフ」から統治を任されたとして「スルタン」の称号を自分に用いたということです。

 東ヨーロッパ世界は、ビザンツ帝国の皇帝、ビザンツ皇帝が中心の世界です。国のかたちとしては、東ローマ帝国の後を継ぐ帝国であるというところが最大の特徴でしょう。ギリシア文化や正教が特徴的な世界でした。
 ビザンツ皇帝は、正教の長であるコンスタンティノープル総主教の上の立場でした。総主教を任命したり、クビにしたりすることができました。

 西ヨーロッパ世界は、神聖ローマ帝国の皇帝とローマ教皇が中心の世界です。国のかたちとしては、西ローマ帝国の後を継ぐ帝国であるというところが最大の特徴でしょう。ゲルマン文化とローマ文化、カトリックが特徴的な世界でした。
 東ヨーロッパ世界とちがい、神聖ローマ皇帝とローマ教皇(カトリックの長)はどちらが上の立場かをめぐって争っていました。東の様子をみればわかるように、本来は皇帝の方が偉いはずなのですが、どちらが「聖職者の任命権をもつか」ということでもめていました。

 以上が、それぞれの世界の「国のかたち」です。現在のように国と国が対等ではなく、「皇帝」のような、すべての上に立つ(とされる)存在がいるなど、状況が今と違うことが分かればOKですよ!

 今回は以上になります。こまかい「世界」の話は高校生の方だけで大丈夫ですよ! イスラーム帝国と唐帝国が解体にむかい、周辺がそれぞれの文化や制度を育んだことをおさえておきましょう!
 では、最後に「それぞれが自立する時代」の復習ラップを聴いて復習しましょう!
https://youtu.be/IQ30qb8nNNI

 次回、第6章は、今回自立して発展した地域を結び付けるような、大きな交易圏ができるお話です。みんな大好き、モンゴルの時代ですよ! お楽しみに!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?