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東大生ラッパーと大雑把につかむ世界史【中央ユーラシア世界史】

 こんにちは、東大生ラッパーの法念です! 今回は、中央ユーラシア世界史を大雑把につかんでいきましょう。

 中央ユーラシア世界は、まさにユーラシア大陸の中央部に位置する世界です。人によって、どの範囲を中央ユーラシア世界とするかはかなり変わってくるのですが、ここでは、およそ大陸中央部の「乾燥している地域」としておきます。

 大きくわけて北部の草原地帯と南部の砂漠地帯とがあり、遊牧民は草原地帯で家畜を連れて移動生活を営んでいます。砂漠地帯にはオアシス(農業のできる地域)が点在し、オアシス民は基本的にオアシスの中で生活が完結しています。ただし、オアシスを結ぶ交易も活発で、国際商人が隊商(キャラバン)を組んで交易をしています。

 そのようななか、紀元前7世紀から前4世紀のスキタイ(アケメネス朝ペルシア帝国と争いました)、前3世紀から後2世紀の匈奴(きょうど)(秦漢帝国と争いました)など、有力な遊牧国家が形成されます。このような遊牧国家は、政治・軍事の中心を遊牧民が担っており、部族の連合体という性格を持っていました。土地を移動しながら生活をするので、土地ではなく、部族や「ヒト」が支配の単位になります。どこの部族とどこの部族は我々に従っているが、あの部族は別の「くに」で、敵である、みたいなイメージですね。

 また、北方の草原地帯の遊牧民と、南方のオアシス民(定住民)の共存関係を軸としていました。たとえば、遊牧民は肉や乳製品をオアシス民に提供し、交易を保護する一方、オアシス民は穀物や生活用品を遊牧民に提供しました。

 中央ユーラシア世界では、政治勢力が東から西に移動することが多かったようです。実際、匈奴の一部は西に進み、一説にはヨーロッパに侵入したフンは匈奴であるとされています。少なくとも、西進した匈奴に押される形でいくつかの遊牧民集団が西進したことは事実で、そのなかにフンも含まれるという説もあります。

 では、このような中央ユーラシア世界の歴史を大雑把につかんでいきましょう! でてくる国名は多いですが、これらを抑えるのは受験生だけで構いません。それ以外の方は、あまり扱われないこの中央ユーラシア世界が、実は周辺の世界の歴史を大きく動かしてきたんだ! ということだけ掴んでおきましょう!

「東西が輝く時代」まで(8世紀ごろまで)

 匈奴は秦漢帝国と争いますが分裂を繰り返し、東アジアの北方では匈奴にかわって鮮卑が有力となりました。鮮卑は、「可汗(カガン)」という君主号を使用したことがポイントです。2世紀にモンゴル高原を統一し、3世紀には東アジア世界に南下して混乱をもたらしました(ぐちゃぐちゃの時代のノートはこちら!)。一方、西方のフンは4世紀にゲルマン人の一派である東ゴートを攻撃し、ゲルマン人の大移動をもたらしました。5世紀にはフンの王アッティラがハンガリー平原に帝国を形成し、ローマを脅かしました。

 モンゴル高原では、鮮卑が東アジア世界北部(華北)に入って北魏という国を建国したのち、柔然という国が有力となりました。柔然も可汗の称号を使用しました。柔然は北魏と対立します。南アジア世界の北部、中央アジアでは、エフタルと呼ばれる帝国が発展し、南アジア世界のグプタ朝を圧迫しました(やり直しの時代のノートはこちら!)。

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 6世紀の半ば、柔然に従っていたトルコ(テュルク)が勢力を拡大し、柔然の可汗を倒しました。7世紀にハンガリー平原に進出したアヴァールは、柔然だとする説もあります。アヴァールはビザンツ帝国やフランク王国をおびやかしますが、やがてフランク王国のカール大帝に敗れた勢力です。

 トルコ帝国(突厥ともいいます)は、東方では東アジアの北朝(南北に分裂していましたね! そのうちの北側の王朝のことです)を一時従属下におき、西方ではササン朝ペルシア帝国と結んでエフタルを滅ぼしました(6世紀後半)。ビザンツ帝国とも外交関係をもつなど、中央ユーラシア世界の東西にまたがる大帝国となりました。トルコ帝国も可汗の称号を用いています。

 トルコ帝国は6世紀末に東西に分裂します。東トルコ(東突厥)は隋唐の王朝交代にも大きな影響を与えましたが、やがて唐の従属下におかれます。西トルコ(西突厥)もやがて衰え、西突厥から7世紀に自立したトルコ系のハザールは南ロシアで繁栄しました。この遊牧国家は世界史ではあまり扱われませんが、可汗の称号を用いたほか、ユダヤ教を受容したことが特徴的です。10世紀にキエフ公国というノルマン人の国に圧迫され崩壊しました。なお、7世紀にハザールの攻撃を受けたトルコ系のブルガール人は西に逃げ、ブルガリア王国をたてています。

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 最後に東部に目を戻しましょう。東突厥は一時トルコ帝国を再建しますが、8世紀半ばにトルコ系のウイグルにとってかわられました。チベット高原にはチベット帝国(吐蕃ともいいます)が栄え、8世紀後半のユーラシア東方は、唐とウイグルとチベットの三帝国が並び立つ状態となりました(東西が輝く時代のノートはこちら!)。

「それぞれが自立する時代」(9~12世紀)

 さて、唐帝国とイスラーム帝国が解体にむかったことで、周辺地域が自立の動きを強めたのが、「それぞれが自立する時代」でした(「それぞれが自立する時代」のノートはこちら!)。東アジア世界とその周辺では、ウイグル、チベット、唐が相次いで滅亡しました。中央ユーラシア世界でも、大統合が消失し、地域的・民族的まとまりが特徴的となりました。

 各地が分裂の状態となり、そのなかで、社会的変化もおこります。遊牧民が、オアシス(定住民)のすぐ近く(あるいは内部)で遊牧して、直接的に支配する形をとるようになるのです。すると、遊牧民の言語や文化がオアシスの住民にも浸透するようになります。今まで、遊牧国家に多くトルコ系がでてきたのに気づきましたか? 中央アジア、とくに東部が「トルコ化」されていくのです。住民の大半がトルコ語を話す状態になるわけですね。この地域が「トルキスタン」と呼ばれるようになる背景です。トルコ系の遊牧集団が西南方向に移動したことも大きな背景となりました。

 一方、すでにイスラーム勢力が中央アジアにも進出していたことを背景に、中央アジアのイスラーム化も進みます。おおまかに、イスラームのルールで社会が動かされる、という意味です。中央アジア、とくに西部がイスラーム化されました。イスラーム世界としては、11世紀にトルコ系の王朝が力を持ったことがポイントです。これにはトルコ化とイスラーム化の動きが背景にあるわけです(イスラーム世界史のノートはこちら!)。

 もうひとつ、遊牧国家の支配体制に注目しましょう。この時代、「中央ユーラシア型国家」とよばれる国家形態が多く登場しました。中国史の文脈では征服王朝ともよばれます。これは、遊牧民が北方の根拠地を維持しながら、南方の農耕地帯やオアシス地帯を支配する国家形態を指します。少ない人口で、人口の多い地域を支配するため、二重統治体制とよばれる支配を行うことが多かったようです。遊牧民と定住民に対し異なる統治体制をとるという意味です。

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 中央ユーラシア型国家には、東アジア周辺のキタイ、西夏、金のほか、イスラーム王朝のカラ=ハン朝、セルジューク朝、ガズナ朝、先ほど挙げたハザールやブルガリアなどがあります。10世紀半ばに東フランク(のちの神聖ローマ帝国)のオットー1世に敗れたことで知られるマジャールという勢力も、このような形態の国家を営んでいたようです。

 キタイ・西夏・金、覚えていますか? 宋と呼ばれる東アジアの帝国を圧迫し、宋は南に都を移して「南宋」となってしまったのでしたね。キタイは金に滅ぼされ、西に逃げています。

モンゴルの時代(13世紀)

 各地に成立した中央ユーラシア型国家は、定住民統治のノウハウをたくわえました。各地のノウハウを受け継いで、ついにモンゴル帝国が中央ユーラシア世界全体を覆うような帝国を築き上げます。

 モンゴル高原を統一したモンゴルは、大モンゴル国(モンゴル帝国)と称し、その指導者テムジンは君主に選出されてチンギス=カン(ハン)と名乗りました。チンギス=カンは各地に遠征を行い、その後継者たちも勢力を広げました。5代目のクビライは、現在の北京に大都という都市を建設し、ユーラシア東方を支配する帝国を築きました。大元ウルスといいます。

各地域には、カザフ草原から東ヨーロッパ世界に参入したジョチ=ウルス、中央アジアのチャガタイ=ウルス、イラン高原を中心にイスラーム世界に参入したフレグ=ウルスなどが並び立ちます。これらのウルスは、クビライ家の大元ウルス皇帝を「大ハーン」としていただき、ゆるやかに連合しました。ウルスの集合体こそがモンゴル帝国なわけですね。

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 モンゴル帝国が中央ユーラシア世界全体を覆う帝国となったことで、陸の交易路と海の道もつながってユーラシア大陸を大きく覆うような交易ネットワークが成立しました。

モンゴルの時代以降(14世紀以降)

 14世紀は危機の時代でしたね(14世紀の危機の時代のノートはこちら!)。寒冷化やペストの流行などで、交易ネットワークが一時的に解体しました。モンゴル帝国も解体しますが、各地のモンゴル勢力は現地の文化や宗教を受け入れて、ある意味とけこんでいきます。また彼らの支配制度は、後継国家に受け継がれていきました。

 東アジア世界では、大元ウルスが滅亡、混乱の中からという国がたてられました。モンゴル勢力は北に後退します。もとの根拠地に戻っていくイメージですね! 

ロシア平原のジョチ=ウルスは徐々に衰退していき、そのなかで、モスクワという国が台頭します。モスクワはジョチ=ウルスに従いつつも、少しずつ国力を蓄え、自立への道を歩み始めました。

 中央アジアのチャガタイ=ウルスは東西に分裂し、その中からモンゴル系部族をたばねたティムールという男が登場しました。ティムールは一代で巨大な帝国を築き、チャガタイ=ウルスやフレグ=ウルスを吸収したほか、やがてジョチ=ウルスも吸収します。

 16, 17世紀にはユーラシア各地に帝国が並立する状況となりました。モスクワが拡大したロシア帝国、小アジアから出発したオスマン帝国、ティムール帝国崩壊後の混乱をおさめてイランに建てられたサファヴィー朝、ティムールの子孫が北インドにたてたムガル帝国、明、およびそのあとに東アジア世界を支配した、中央アジアやチベットを中心に清やロシアを脅かしたジュンガル帝国などです。

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 18, 19世紀には、清とロシアにより中央ユーラシアの分割が進みました。定住農耕民が進出して、遊牧民を支配する形となったのです。

 19世紀末からは列強による分割(とくにロシアの南下とイギリスの北上)があり、一次大戦とその前後にはユーラシア各地の帝国が解体しました。ロシア帝国、オスマン帝国、清のほか、ヨーロッパではドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国が解体しました。帝国なき後には、国民国家がつくられることになります。

 国民国家に基づく主権国家体制が広がるなかで、人口の少ない遊牧民は、各地で少数民族となっていきました。主権国家体制は、明確な国境が前提でしたね。定住民の「土地に基づく支配」が中心になったわけです。

 今回は以上になります。内容が盛りだくさんでしたが、大雑把につかむ世界史シリーズを復習して、中央ユーラシア世界が、各地の世界の歴史を動かしてきたことが掴めれば十分ですよ!

最後にラップで復習しましょう!↓
https://youtu.be/xR251lINGWQ

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