母と行ったスナックの思い出

あれは高校三年生の初夏の夜だった。

「お父さんには内緒やで。」といつもの文句で、母は私を連れ出してくれた。私はこの「お父さんに内緒」が好きだった。単純にとてもわくわくした。

内緒と言われているにも関わらず、私は大抵帰宅後の父に報告していた。「今日お母さんに内緒って言われたんやけどな…」と。母も、私がほぼ毎回父に報告する事を知っていたが、それでも毎回「内緒な。」と言ってくれた。母も私と同じように、この小さな「秘密」に楽しみを見出だしていたのかもしれない。

こういう時、決まって私達は歩ける距離にあるチェーンの和食屋さんに行った。母がビールを飲むためだ。私はそこで食べる居酒屋メニューのような一品物が好きだった。

その日もいつものお店で夕食を済ませ、母はビールを美味しそうに飲んだ。その後お店を出ると母は言った。

「もう一件行こう!」

私の人生初の「ハシゴ」だった。

和食屋さんから10分ほど歩くとそのお店はあった。鮮やかなピンクに黒の文字で店名が入った看板、私がそれまで行った事のない大人のお店の雰囲気にドキドキした。母が慣れた様子でその重厚な扉を開けるとそこには別世界が広がっていた。

正面にはずらりと並んだボトル。キラキラした薄暗い照明に赤い絨毯、カウンターに背の高い椅子。カウンターの中には派手な化粧の女性。バブルを思わせるスーツを着て、脱色しすぎた髪を一つにまとめている。厚い唇に真っ赤な口紅が印象的だった。母と同じくらいの年齢だろうか。私は緊張しながら中に入った。

「おはよう、まーちゃん!」

カウンターの中の派手な女性がガラガラ声で言った。

「おはよう、みはるちゃん!今日は娘連れてきた。」

古くからの友人のように二人は慣れた様子で挨拶をした。

こうゆうお店では夜でも「おはよう」と言うのか。私は少し大人に近づいたような気がした。母は水割りを一杯、私はウーロン茶を飲んだ。小さなお皿にピーナツと、私には一口チョコも出してくれた。

母はボトルをキープしており、月に2、3回父と二人で来店していたそうだ。両親はカラオケが好きで、水割りを飲みながらここで歌を歌う。採点機能の付いたそのカラオケで母はよく高得点を出すのだと、「みはるちゃん」は教えてくれた。

他のお客さんはいなかった。私と母は一曲ずつ歌い、みはるちゃんとたわいもない話をし、一時間足らずでお店を出た。レジスターが無く、メモ用紙のような小さな紙に金額を書いてそっとカウンターに置くやり方はスマートで、これが大人の世界なのかと、カルチャーショックだった。そして、高校生の私はその金額に目が飛び出そうになった。2000円!水割りとお茶と少しのお菓子で2000円!!たかーっっっ!!

私がスナックへ連れて行ってもらったのはその日が最初で最後だったが、父と母はたまに訪れていたようだった。「行くとみはるちゃんにいつも、うみちゃん元気?って聞かれるよ。」と母が言っていた。



それから二年後、母は病気で他界した。

お通夜は雨が降り、それでもたくさんの方が参列してくれた。私は母が亡くなったという現実を受け入れられず途方に暮れていた。まだ19歳だった。

父は仕事の付き合いが多く、仕事関係の参列者も多かったのだが、若かった私にはそれが許せなかった。直接母を知らない人には来てほしくないと思っていた。悲しくないのに来ないでと。

やりきれない思いで、真っ黒な群れを眺めていると、その中に異彩を放つ人物がいた。脱色しすぎた髪。同じ喪服なのに夜の暗闇の中で一際目立っている。

みはるちゃんだ。

母のお通夜に、みはるちゃんはトレードマークの濃いお化粧を薄めにし来てくれたのだ。前に並んでいた家族席の方を向き、父とそして私の顔を見てゆっくりとお辞儀をした。母の棺に手を合わせ、もう一度私の顔を見てくれたみはるちゃんは泣いていた。

その時に私は痛いほど実感した、あぁ母は亡くなったんだ。そしてほんの数日前まで確かに生きていたんだと。

みはるちゃんの存在、私があの日初めて大人の世界に足を踏み入れたあのスナックの風景、赤いカーペットや並んだボトル、隣にいた母、全て現実で、母が亡くなった今も現実なんだと。みはるちゃんのおかげで、ほんの少しだけ現実を受け入れられた。



あれからもう17年が経とうとしている。

私も二人の子の親になった。長男は去年小学生になり、次男も去年から幼稚園に通い始めた。学校のイベントの代休で長男だけが休みになると私は長男をランチに誘う。そしてこう言う。

「お父さんと弟には内緒やで。」

長男はいつも嬉しそうに笑う。そんな時に私はいつも母の事を思う。



今日は母の日だなー。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?