広辞苑を愛読し、ラメペンでアフロ犬を描いて叱られる子どもだった
断言する。10歳の私がもっとも熟読したのは、広辞苑だ。
小学4年生の頃の担任は、辟易するほど日記にうるさくて、毎日5ミリ方眼のノートに1ページ半のノルマ(日記)を課してきた。
日記嫌いの私にとって1ページ半というスペースはだだっ広すぎる。
だいたい、毎日日記に書けることと言えば、友達と遊んだことと、夕飯の献立と、その日見たテレビ番組くらいしかないのだ。これらを普通に書いたところで、ノルマの1/5にも満たない。
毎日何か特別なこと(たとえば遠足)が起これば日記だって書きやすいのだが、そんなに甘くないのが現実だ。どんなに頭を振り絞っても書くことがない日の方が多かった。
そんな私の苦悩とは裏腹に、担任はまるでそれが義務であるかのように毎日日記の宿題を出す。こちらがどれだけ迷惑しているのか、まるで分かっていないらしい。
困り果てた私はどうにかページを埋めるため、本棚でくすぶっている重たい広辞苑を引っ張り出し、自分が知っている単語をできるだけ長ったらしく表現できないか調べるようになった。
字数が多くなるなら漢字だって喜んで放棄した。
たとえば「放課後」なら「がっこうがおわったあと」、「おやつ」は「チョコボールのイチゴあじ」といった具合だ。
もちろん、こんな猪口才な字数稼ぎを担任はすぐに見抜いた。
その証拠に、当時の宿題ノートには、日記のそばに必ず「知っている字は漢字で書きましょう」という赤ペンの注意書きが書かれている。
広辞苑以外にも、効率よくページを消費するための戦略は色々あった。一文ごとに改行してみたり、挿絵を入れてスペースを埋めたり。我ながら涙ぐましい努力である。
中でも挿絵を入れる戦法は有効で、書くスペースを大幅に削減することに成功した。しかし、このチート級のテクニックは担任に大目玉をくらい、以降反則技として正式に禁止されたのでオススメはしない。
「こんなにデケデケと描くようなことじゃないでしょう!」
たしかに当時流行していたアフロ犬は、6×6の合計36マスも使って描くようなイラストではなかったのかもしれない。
ただ当時の思惑として、その日は友達とアフロ犬のシール交換をしたことを書いたので、挿絵に採用しても大丈夫だろうと考えていたのだ。
そしてこれはまったくの後付けであるが、あのイラストを添えた方がアフロ犬を知らない担任もイメージしやすいだろうという、いわば親切心からの行動だったのである。たった今考えた、まったくの後付けではあるが。
色ペンで着色したことも担任の怒りを買った。
筆箱に入れるのは鉛筆2本と消しゴム、そして名前ペンと赤ペンのみで良いというのが、担任の方針だった。
私はそれに背き、これまた当時大人気だった消しゴムで擦ると色が変わるナイスなラメペンでアフロ犬の頭をファンキーに塗ったのだが、これが大層お気に召さなかったらしい。気難しい担任である。
これだけでも私がいかに日記嫌いだったかお分かりいただけると思うが、不思議と作文自体は好きであった。読書好きが高じて自分でも物語を書いてみるほどの作文好きだったのだ。
思うに、私が日記にこうも苦戦していたのは、日常に転がっている些細なことをすくい取って文章に昇華するだけの観察眼がなかったからかもしれない。
もちろん、今の私にその洞察力が十分に備わっているとは言い難いが、少なくとも広辞苑や挿絵の力を借りなくても、あの5ミリ方眼のノートに規定の文量を書くことはできるだろう。
刺激に満ちた生活を送るようになったからではない。あの頃と変わらず、私は今も何の変哲もない日常を送っている。
なのに日記を苦もなく書けるようになったのは、たかが風1つ、雲1つにわざわざ美しい名前をつけてきた日本人の感性を愛するようになってからだと思う。
無機質にスライドしていくだけの日々も、その日吹いた風に着目して観察するだけで一気に解像度が増す。日記を書くコツとは面白いもの探しなのだ。
アフロ犬の挿絵で30マス以上もスペースを消費している場合ではない。広辞苑だって、長ったらしい単語を探すためじゃなくて、表現したいことにピッタリくる単語を探すことに使った方が有意義だ。
毎日飽きもせずに日記を書かせた担任は、こんな風に日々を過ごしてほしかったのかもしれない。
私の日常はあのときからずっと面白くて日記に残すべきことがたくさんあったのだろう。
10歳の頃は気づけなかっだけで。
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