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電子書籍に埃は降らない

自分の本棚の行く末を考えることは、自分の人生設計を想像する行為に近しい。

先日たまたま書店に寄る機会があって、山竹伸二『無意識の正体』を購入した。タイトル通り「無意識」に関する研究歴史や概念について深く言及している本で、学術的だけど面白い内容だった。知見は現実の認識を変える、を体現したような一冊である。

思えば最近は漫画も本も電子版での購入が殆どで、冊子を手に取ること自体が本当に久しぶりだった。「紙の本は良いですよね、ページを捲る感触、インクの匂い、適度な質量から伝わる一個の作品としての重み……」みたいな感慨は、残念ながらまるで持ち合わせていない。僅かな差額で冊子が手元に残るなら得かなぁと思うことはある。けれど結局は、保管や持ち運びの手間を考慮して電子版を選択してしまうのだ。それに書籍の価値の本質は装丁ではなく内容だ。もちろん蒐集欲・整理欲を満たしたり、陳列してインテリアとして活用できる側面も否定はしないけれど。

そういえば友人に一人、電子書籍が好みであるにも関わらず、敢えて紙媒体で購入している奴が居る。理由について尋ねると「将来自分の子供に資産として譲り渡すため」とのことだ。独身街道まっしぐらな僕にとっては目から鱗の発想だった。

それは所有物を相続する、みたいな単純な話ではないのだろう。「親の本棚」とは家庭内において象徴的なオブジェクトの一つだ。子供は親からのオススメや勝手な物色によって旧世代の作品群に触れ、かつて同年齢だった親が抱いた感受を追体験するのだ。それは家族の直接的なコミュニケーションでは伝わり切らない、バイブスの継承にもなり得るだろう。

みたいなことを漠然と浮かべると、自分の本棚の行く末を考えることは、自分の人生設計を想像する行為に近しいのだと気付いてしまう。割と場当たりで生きている僕にとって、ちょっと目を背けたくなる着想だ。

ただ実際、自分の本棚に並んでいる冊子群これどうしよう問題はいずれ直面する日が来るだろう。それはまだまだ遠い未来の話かもしれない。とはいえ現時点でも十分に想定可能の範疇ではありそうで、先行き不明なのは、単に僕が思索を積んだまま開かずに放置しているだけだからだ。

僕は実利的な判断に基づいて電子書籍を選んでいると前述した。しかしその自覚は果たしてどれほど正確だろう。僕は来たる日に備えて、物を持たないように、増やさないように、残さないように、何か防衛的な選択を取っているのかもしれない。自己理解など不完全極まりないと、それこそ先日買った本で学んだばかりだ。

定期的な大掃除では本棚の埃を払ったりもする。そんな日常の営為一つ取り上げても、そこに将来の子供のためを思うような意味など何も含まれていやしないのだ。長年を通して集めた冊子の数々は、最終的には古本屋にでも売り払ってしまうのだろうか。業者に引き取られる思い出の品々を前に、己の半生を振り返ったりするのだろうか。せめてその時、苦痛に感じない程度には楽しい人生を歩めているか、精神が麻痺達観していて欲しいと願うばかりだ。あるいはこの読後感の悪さすら、誰かの心に少しでも爪痕を残してやりたいという無意識の発露なのかもしれない。


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冷静になるんだ。