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ライトニング屁理屈

パンはパンでも食べられないパンは? もちろんフライパン以外にも色々ある。だから複数の答えが存在しうるこの手のなぞなぞは、「答え」じゃなくて「答えの例」「回答例」と表記するべきだ。そんなことを、幼少期の頃はけっこう本気で思っていた。少なくとも手元のなぞなぞ本には、ピーターパンについては何の言及も無かったのだ。

流石に今となっては、そんな重箱の隅をつつくような不服は抱いちゃいない。もう良い大人なんだからね。物事の見方も多様になり、ちょっと視点を変えてみることを覚えたのだ。

答え:フライパン、とは一見すると確かに不十分な表記だ。あくまで回答例の一つでしかない。しかしその不十分さは、他の回答候補を自分で連想する機会・正答が単一かのような記述形式そのものに疑問を呈する機会を促している。そうやって、明示された一問一答以外にも思考を発展させることは、ある意味で知育としての意義と捉えることもできる。

小難しい言い回しになったが、「ピーターパンでもあってるよね?」と子が親に聞く様は、いかにも成長の兆しといった光景である。その二次効果まで加味すれば、上述の書き方も悪くない気がしてくる。

……無論、これは飛躍した発想というか、陰謀論や詭弁の類だ。こんな歪曲した価値判断なんていくらでも言えてしまう。それこそ例えば、僕という一人の屁理屈モンスターを生み出してしまったのだから、結果的にやはりダメな表記だったと指摘することもできる。

ただ、悪し様な扱いをされがちな詭弁や屁理屈であっても、悪用をしなければそれは面白い発想の宝庫だ。ただ見方を変えるだけで、物事の意味や価値が覆ったという経験は誰しもあると思う。僕はそういう、さも当然だと信じられている常識や固定観念に一石を投じる新たな着眼点というものが好きだ。noteを書いてるモチベの何割かは、そういう妄想妄言をそれっぽく書き留めておきたいという部分だってある。

ところで先日、たまたま自分の母子手帳を見る機会があった。幼稚園ぐらいの僕に関して母は「たまに理屈っぽい」と記述していて、妙な納得と共に苦笑いが漏れた。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

では、なぞなぞ話題ついでにもう一問。答えを思い浮かべてから次に進んでみて下さい。
「日本には上り坂と下り坂のどちらが多いでしょうか?」



かつて僕が住んでいた千葉県某所は坂道の多い住宅街だった。その街は下り坂より上り坂の方が多くて、自転車移動の際はとくに苦労した。

みたいな話を冗談半分で振ると、頭が回ってる人間は目ざとく突っ込み所に乗じてくれる。有名なひっかけクイズだ。上り坂と下り坂は同数にしかならんだろ。見方を変えれば両者は同じなんだから。それでみんな納得して一段落。

果たして本当にそうだろうか。この問いもまた、言外に常識的な価値観を前提にしている。つまり、坂道は物理的な距離・数で測るのが当然というものだ。だからなんだ。それはいかにも普通で、疑問を挟む余地はなさそうに思える。

しかし例えば坂道を距離ではなくて、踏破する時間で計測してみたらどうだろう。冗談じみた「僕の故郷は下り坂より上り坂の方が多い」という発言も、ちょっと理があるような気がしてこないだろうか。実際、現代社会において「駅から徒歩〇分」「電車で〇時間」といった表記は多く、道のりを時間で概算するケースは珍しくない。上り坂道が多くて大変だった、という話の趣旨まで汲めば、そこまで出鱈目な論理でもない筈だ。

さて、なるほどと思った人は詐欺師に騙されないように。この屁理屈にもちゃんと穴があるので、ロジカルに反論してみましょう。屁理屈を好き好んで弄んでいると、自分の屁理屈にさらに屁理屈で言い返せるようになって、螺旋を描くようにずっと賛否をループさせる遊びができるようになるぞ。狂気。

まあ、ユーモアの波長が合う相手を選ばないと「意味分かんないw」と一蹴されてしまうような戯言だ。こんなことばかり言う人間を、世間は捻くれ者だのつむじ曲がりだの性格が歪んでるだの、さんざんな表現をする。背筋をピンと張った、直線的で堂々としたイメージとはかけ離れているようだ。

とはいえ今更この気質を矯正できそうにもない。三歳児の頃からずっとこういうDNAの削り方をしてきたのだ。良い大人ってなんだっけ。せめて百歳児まで健康に生きれるよう願うばかりである。

冷静になるんだ。