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涙の理由は春と嘘

春は出会いと別れの季節だとか。出会いと別れ、って一息に言うと、何だか真逆の意味の言葉というより、表裏一体な印象が強まる。僕は学生時代から花粉症の症状が酷くて、疼くなる目はさも赤く充血し、卒業式の日に限って急に感情豊かになった奴と思われることがあった。生理現象で流れる涙は果たして嘘か真のどちらか。



「泣く」とは不思議な現象だ。それが随意ならば行為とも呼べるだろうか。涙の身体的な役割が目の洗浄だとすれば、感情に誘引されて涙が流れるなんて甚だ意味不明な人体の神秘である。もしヒトが玉ねぎを切った時にしか泣かない生物だったなら、涙に詩的な意味を象徴させる文化は発達していなかっただろう。

人は嬉しくても悲しくても泣く。悲喜とはあまりに両極の概念にも思えるが、涙さんの判定的には大差ないのかもしれない。感情が一定値以上昂るという点において? その示唆はどこか本質めいている。



泣いた、みたいな感想を平然と口にする人が苦手だ。葬式やペットとの死別をSNSに投稿する人も、人前で泣くことをいっさい抑制しようとしない人も。憚りなく醜態を晒しているからではない。現象ではなく行為として泣くこと、それをわざわざ周知すること自体に、僕はちょっとした忌避感を抱いてしまう。嘘泣きとまでは言わないけれど、別の雑念も含んじゃってるよね、と陰湿な性根が白けた皮肉を放ってしまうのだ。

泣き姿を他者へ示す(他者の視線を認識しながら泣く)ということは、よほど制御不能でない限り、それはもう広義的にはコミュニケーションの一端なのだ。そしてコミュニケーションとは少なからず見栄と体裁と恣意が纏わるものだ。人為に用いられた涙はその意味を変質させ、本来含まれていた筈の純粋な成分が致命的に濁ってしまう……そんな気がしてしまうのだ。

それは「感情」と「感情を表し尽くした全身全霊の言葉」が似て非なる関係であることに近い。涙を一種の伝達手段としてしまった時点で、それは己の心情を映す水鏡から、単なる表現方法の一つへと成り下がるのだ。僕にはそれがどこか不誠実で、恥だと感じてしまう節がある。

そしてそんな時、毎回決まって過去に読んだ小説の一文を思い出すことになる。

人間が泣く時は、前後不覚でなければならないと思っていた。だけど沙希には涙を感動の物差しとして誰かに示すことを恥と思ういやらしさがなかったのだ。

又吉直樹『劇場』

僕はいやらしい人間だ。僕はコミュニケーションの全てがどこか作為めいて表層的だと、未だ年甲斐もなく蔑視しがちだ。何でもかんでも心の内に秘めたがる悪癖を拗らせて、自己開示の当然さ・大切さを失念してしまうのだ。こんなことではまたいつか泣きを見る日が来るだろう。その一節は深く楔のように心に突き刺さったままだ。

春は花粉の季節だ。朗らかな陽気と清々しい青い空。こんなにも透明に見える空気はあらゆる生命を歓迎しているようで、その実は僕の体を毒する無数の粒子が舞い飛んでいるというから驚きだ。目に見えるものなんて何も信用ならないよ。世の中の全部が嘘だらけ、本当の価値を二人で探しにいこうと歌いたくもなる。本当の価値って何だ。バイアスだって捉え方次第では本質の一端を担うこともあろうに、拗らせた本物志向()とやらはつい思い込みに対して過剰な拒否反応を示してしまう。至公至平ばかり求めて好きという感情にいつもブレーキをかけている。まるでアレルギー症状である。

こんなにも目が痒いから、この時期、あらゆる涙は花粉のせいにできてしまいそうだ。雨が降っていれば、今度は雨粒が頬を伝っているだけと吐けもしよう。晴雨の両方に対応しているなんて、春はつくづく嘘の季節だ。本物と呼べるものだけでいい。ずっと考え続けているけど、世界は花粉に満ちている。中々に難しい。


冷静になるんだ。