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小説が私達のコミュニケーションツールでもあった話

小説がコミュニケーションのツールでもある。
この言葉から、あなたはどんな示唆を連想しただろうか。

メッセージ性を強く物語に投影すること?
小説の中に特定個人への私信を仕込むこと?
作者と読者の非対称な関係性について比喩した観念的な話?
本の勧め合いによって芽生えた友人関係のエピソード?

しかし今回の話は上記のいずれとも違う。……と勿体ぶったが何のことではない、私が大学時代に所属していた文芸部の、ほんの一側面を表現したに過ぎないのだ。つまりここで言う小説とは、部員達が執筆した創作小説のことを指している。

文芸部には色んな人間が居た。マジの物書き志望者が居たし、趣味で創作をしたいだけという人も居た。執筆はせず類友を作りに通っている者も居た。優等生も模範的なクズ大学生も居た。私はというと、読み書きよりゲームや他の趣味で過ごす時間の方が明らかに多いような人間だった。それでも創作への姿勢は誠実であろうと努めていたつもりではある。

文芸部とは小説を書く部活のことだ。そして他には「合評会」なる互いの作品への意見交換会も行われていた。部員達が完成させた小説を互いに読み、率直な感想や意見をぶつけ合うのだ。ストイックという程ではないにしろ、褒め合いに終始せず正直に批評しましょうという風潮はあった。作品批評に乗じた人格否定を禁ずる掟も敷かれていた。この活動は執筆と肩を並べるくらい、部員達にとって主要なイベントであった。

とはいえ技術的にも人間的にも未熟な大学生集団が、正しさの指標もない創作という無法の分野にて、好みは人それぞれという身も蓋も無い結論を大前提に、好き勝手思ったことを話し合うのだ。円滑に進行すると思うだろうか?

果たして合評会とは波乱の様相が常であった。読者側は価値観の齟齬と色眼鏡と辛口批評の美学と無粋を野放しにしたまま己の世界観に基づいて意見の応酬に見せかけた我流文学論の演説と過度な深読み考察のお披露目会を一方的にかまし合っていたし、作者側は作者側で締め切りを言い訳に自作の不出来を開き直るわ執筆の経緯や裏設定を語り出すわモチーフ元を開示して権威付けようとし始めるわで恥も外聞もない有様だったから、端的に言ってカオスだった。

それでも済んでの所で学級崩壊に至らなかったのは、皆が皆、曲がりなりにも創作物や創作者に対して愛や思いやりや理解といった誠意を持ち合わせていたからだ。本当か? 裏を返せば、ヒートアップするくらいみんな真剣だった。私はその形振り構わぬ空気感が嫌いではなかった。好きだった。そして混沌の中から各々が有意義なものを見出しては次の作品の糧とするのだ。何だかインターネットみたいだね。

そんな感じの文芸部活動。つまり上述の合評会こそが小説を媒体としたコミュニケーションの場でもあったのだ……という結びにしても嘘ではないのだけれど、この話の主旨はもう少し踏み込んだ位置にある。そろそろ本題に入ろう。

ある日、部員の誰かが言ったのだ。「小説を通して、その人が何を考えているか知れるのが面白いんだよな」と。

他愛のない会話の一幕のことだ。けれど私にとっては印象的な発言だった。だから今でも覚えている。本人は無自覚だったろうが、それは文芸部というちょっと異質なコミュニティを的確に象徴した言葉だったと思う。

考えてもみて欲しい。部内では誰もが作者であり、また読者でもあったのだ。需要と供給を内輪で循環させていたのである。これこそがアマチュア創作界隈に蔓延する馴れ合いの慣習……とは言わないが、少なくとも相互扶助の関係ではあった。更に言えば大学生らしいサークル仲間でもあり、読み手と書き手の距離感としてはあまりにも近過ぎたのだ。

そんなことは、読書体験において大いに関係がある。それは、職業作家の作品を網羅的に追いかけるとか、文学的な知見で宮沢賢治や太宰治の人物像を推察するとか、SNS漫画投稿者の日常ツイートから私生活事情も知るとか、みたいな行いとは一線を画して決定的に異なるものだ。

「文は人なり」という諺がある通り、文章には書いた人間の人となりが表れてしまうものだ。これは設定可能なファクター(シナリオ展開・作品ジャンル・登場人物の言動等)から作者の趣味嗜好を推し量る、といった表層的な話ではない。知識量や語彙力を計測できるという意味でもない。ましてや「物語と作者は別」だなんて頭で意識する/しないのレベルで介入できるものですらない。

もっと細かい一つ一つの文体や言葉選びから、その人の価値観や要領の良し悪しや人間性が否応なく滲んでしまうものなのだ。例えばあなたの文章には、あなたが今までの人生で積み上げ、あなた自身を形造っている真髄の一端すら表出していると言っても良いだろう。そして感情と熱意が込められて仕上げられる小説という媒体において、その特徴は殊更に顕著だった。

私達にとって他の部員が書いた小説は、独立した一個の物語であると同時に、言動や容姿といった当人への印象の土台となるパーソナルな情報でもあったのだ。見知った人間の書いた文章とは、それほどまでに内容以上のメタ的な意味を持つものだった。「小説を通して、その人が何を考えているか知れる」という発言にも頷けるのではなかろうか。

改めて長々書くとなんか特異な状態に思えるけれど、これ自体はコミュニティ活動全般に当て嵌まる、酸素を吸って二酸化炭素を吐くくらい自然で当たり前の営みでしかないことだ。バスケ部員がバスケの実力を度外視して相互に印象を抱くことなど、どうしてあり得るだろうか。

ただ、共同制作やチームスポーツや合奏と違って、執筆も読書も本来は対人的なコミュニケーション要素とは無縁であり、コミュニティへの所属も不可欠という訳ではないのだ。フィードバックの機会を得るという建前実利目的にしろ、同類との人間的な繋がりを得たいという実態にしろ、小説を書くという目的において文芸部への所属は必須ではない。この必然性の少なさは、読み書きで純粋に物語に向き合うという観点において、僅かながらにでも明らかにノイズであるのだ。

誤解無きよう伝えておくが、私はこれを悪いことだとは思っていない。なぜ私が先の部員の発言を昔からずっと覚えていたのか。かねてよりこんな七面倒臭いことを思考していたからではない。私もまた「小説を通して、その人が何を考えているか知れるのが面白い」という意見に内心で同感していたからだ。もしかしたら、ストイックな作家志望の部員は眉を顰めていたかもしれないけどね。でも趣味活動とは、人間生活とは、そんなもんだ。私としては、そういうちょっと面白い? 独特な? 異質な? 性質があるコミュニティだったよねという話でしかないのだ。

まあ、でも、体裁的には切磋琢磨を題目としていた文芸部という部活において、小説の「物語作品」ではなく「コミュニケーションツール」としての側面を強調して大っぴらに肯定してしまうのは、ちょっとどうなんだろうなあと、今さらになってふと首を傾げている次第ではある。その言葉に無邪気にも同感してしまった私は、本当の意味で創作が好きだったんだろうか。

後編に続く。↓↓
https://note.com/honbun3282/n/n5c854ee29029

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