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人生における成功とは?

最近、タイトルのようなことをよく考えている。
あなたは、「あなたにとって人生における成功とは何ですか」という問いに対して明確な答えを持っているだろうか?
はっきりと答えられるあなたは、そのままでいてほしい。
素晴らしいことだと思う。
今回は、「人生における成功」をテーマに、深く考えてみたいと思う。


はじめに

「人生における成功」について考えることは決して無意味なことではなく、全ての人類が生きるうえで非常に重要なことである、と強く言いたい。
「全ての人類」と言ったが、今回はこれを「現代社会の日本人」に限定しておく。
「全ての人類」としても問題はないかもしれないが、私自身が現代に生きる若者であり、海外への渡航歴もないため、対象を限定的にしておく。
「人生における成功」について考えることで、これから生きていくうえで自分が何を大切に生きていきたいか、見つめなおす手がかりとなる。

さて、現代社会では、「勝ち組」や「負け組」など、かつての士農工商とは違った意味合いの、ある意味身勝手で理不尽な階級が存在している。
この分類は、完全に相対的なもの、すなわち他人との比較によってのみ成立するものである。
士農工商は絶対的なものであるため、真逆の階級制度であると言えるのではないだろうか。
他にも、「上級国民」や「庶民」など、私たちは多くの階級制度を自ら作り出しているのである。

現代のJ-POPを代表する某アーティストの歌詞の中にも、個人のキャラクターなどでの分類について言及している箇所がある。
そのような内容の楽曲が流行するということは、やはり多くの人が共感したということだと判断できる。
多くの人は、他人からの評価または他人を評価してしまう自分自身に対して、もやもやしたものを抱えているのだ。

歴史的側面から見る勝者と敗者の分類

旧来の階級制度や身分制度は、今を生きる我々には想像できないほど理不尽なものであったと考える。
逆に言えば、現代の日本人はその点では非常に恵まれているはずなのだ。
しかし実際は、自分自身の階級や身分に満足していない日本人は少なくない。

これまでの日本では、生まれた時点で自分の身分や階級は確定しており、多くの場合は死ぬまでそのままでいることを受け入れなくてはならなかった。
どんなに努力や自己研鑽を積んでも、ほとんどの農民は農民のままであった。
比較的身分の高いとされる武士においても、上下の身分が存在しており、生まれながらの身分には抗えなかった。
結局、このような理不尽な身分制度は廃止されていくのだが、私はこの時代を少しだけ羨ましいのではないかとさえ思う。

それは、その時代は自らの行いによって身分や階級が変わることがほとんどなかったからである。

現代はどうだろうか。
生まれた地域や家庭環境によって、多少のハンデは存在するだろうが、それは本人の努力次第で如何様にも変えていける時代なのである。
例えば、バスも通らないような田舎町から有名大学へ進学することも可能であり、有名大学以外から名の知れた企業への就職も可能である。
また、貧困家庭であった少年少女が後に芸能界入りを果たしたり、動画配信で多くの登録者を獲得し、多くの富を得ることもあるだろう。
特に現代は、誰でも多くの情報にすぐにアクセスできるからこそ、それが顕著である。

このように、地域間、家庭間の違いはあれど、現代の日本人は何者にでもなり得るのである。
裏を返せば、本人の選択や努力次第であるからこそ、私たちはより多くの悩みを抱えることになったのではないだろうか。

自分はカーストのどの位置にいるのか

ここまで、身分や階級について述べてきたが、果たして自分自身はカーストのどの位置にいるのだろうか。カーストというと、三角形を思い浮かべると思う。
しかし、実際に「あなたはカーストのどの位置にいますか」と日本人に質問すると、多くの人は中間くらいと答えると私は思う。
これは、日本人の謙虚さと少しのプライド、平和ボケした価値観から推測した。
だとすると、多くの人の自己認識を反映したカーストは、ひし形になる。

これは、どの年代に聞いても同じような結果になるのではないだろうか。
人生のどの段階でも他人との比較という行為は存在し、その評価指標は数多く存在するからである。

では、比較にはどのような評価指標があるだろうか。
学生時代では、運動能力や勉強の出来、モテや友達の多さ、容姿などが挙げられる。
社会人では、年収や資産、地位や容姿、結婚相手などが挙げられる。
どちらでも容姿を挙げたが、これは努力ではどうにもできないと思われていたが、現代ではお金で多少解決できるものである。
以上のように、長いライフプランの中で、他人との比較は無意識の上で数多く行われることになる。

したがって、「あなたはカーストのどの位置にいますか」という問いに対する答えは、評価指標によっては自己評価と他人からの評価に誤差が生じるのは想像に難くない。

人は何をもって成功とするのか

さて、そのような自己評価と他人からの評価のずれはなぜ生じるのか。
それは、人によって評価指標が異なるからである。

例えば、就職や職業選択を例に挙げる。
学生Aと学生Bがいたとして、Aは誰もが知っている大手企業に、Bは地元の中小企業に就職したとする。
この場合、Aを含め過半数の人は大手企業に就職したAを勝者、地元の中小企業に就職したBを敗者と考えるかもしれない。

しかし、どこにも内定を貰えなかったという理由ではなく、自らの選択で地元の中小企業を選択したBにとっては、地元での家族や友人との時間を大切にしたいという思いがあり、その実現に成功したと考えているのである。
この場合、Aの評価指標には地位や年収が含まれており、Bの評価指標にはそれらは全く含まれていない。
Bは、地元で過ごす時間や家族との時間を評価指標としているのだ。
これは評価指標と呼べるものではないかもしれないが、Bにとってこれが実現できた場合、人生が成功したことになるのではないだろうか。
反対に、Aは地位やお金を手にしている間は、人生が成功したと言えるだろう。

勝者か敗者か

就職の例を挙げたが、それだけとっても多くの評価指標が存在し、価値観は人それぞれだ。
例えば、高卒か大卒かなどの最終学歴による違いもあると思う。
高卒と大卒が同じ地元の企業に就職した場合でも、それぞれ価値観の違いはある。
進学して選択肢を広げた後の選択と、選択肢が狭い中での選択は全く異なるものであるし、それにかけた費用も決して無駄ではなく、何が正解などというものでもない、と強調したい。

地元を離れて頑張って稼いでいる人の中にも、地元で残って生活が苦しいながらも幸せそうにしている同級生を見ると羨ましく見えることもあれば、その逆もあるだろう。
結局は、隣の芝生は青く見えるのかもしれない。

しかし、幸せそうに生活している人には共通点があると私は思う。
それは、「自分の評価指標をしっかり持っている」ということである。
これは、「他人との比較をしない」とも言い換えられるかもしれない。

幸せそうに生活している人は、「人生における成功」を実現している。
ここで、「失敗したっていいではないか」という意見が飛んでくるかもしれないが、「成功するに越したことはない」と声を大にして言いたい。
誤解のないように言うと、ここでの「失敗」とは他人との比較による結果などではない。
自分の評価指標を実現できなかった結果としての「失敗」である。

例えば、夢を追いかけたかったが挑戦することを諦めて別の場所で地位などを得た場合と、夢に挑戦したが叶わずに別の場所での地位も得られなかった場合とでは、社会的にみると前者が成功である。
しかし、後者が失敗かと言えばそうではないのだ。
自分の評価指標に夢に挑戦するということがある場合、後者が成功なのである。
社会的に見て成功した前者が、夢に挑戦しなかったことを後悔している場合、前者は失敗という自己認識をしているのだ。

したがって、勝者か敗者かという判定は、他人の評価によってではなく、自己評価によってのみ可能なのである。

おわりに

ここまで、「人生における成功とは?」というテーマについて考えてきたが、いかがだっただろうか。
もしこの記事を読んでいただいた方がいるのであれば、私自身も含め、今後の生き方を是非改めて考えてほしい。
そして、今回述べたような考え方をできる人が世の中にもっと増えることを願う。

この記事の多くは、私の主観的な意見が大半を占めており、根拠となるデータが不足しているため、その点については謝罪しておく。