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無意識レベルで「子育て=母親」になりすぎていないだろうか

今週末は、小学校の卒業式。
息子も卒業生です。

発達障害の彼が「集団に混ざりたい」と言う願望を持ち出したのは高学年になってから。そんな望みが叶うことと並行し「加害者」と呼ばれることも増えました。

親としては息子が加害者になってしまうことについて、定型発達者向けの説明では理解できなかったり、お友達等の空気を読むことが難しかったりということもあったのかもしれないと感じています。

そこには、支援(大人の人手)が必要だったのだと思います。

「加害者=頑張ってない子」ではないし「加害者=ダメな子」でもない。様々な意見があるとは思いますが、私は「加害者=過ちを犯してしまった子」だと思います。もちろん多くの原因と課題は本人の中にあります。ただ、繰り返される行動の原因解明と対策を講じるのは、その場を共に過ごす大人の問題でもあったように思います。

「支援の少なさ」と「画一的な集団の中」で何度も反省を求められた息子。そして何度も謝罪をした息子。親として贔屓目ではありますが、よく頑張ったと思います。

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そして、私自身も頑張った1人ではないかと思っています。

「お母さんが笑わないと」
「お母さんからも言い聞かせてください」
「お母さんの意識を」
「お母さんも動かないと」
「お母さん頑張って」
「お母さんも繋がりを」

母親を主語とした言葉を聞きながら「肩書きに多くがのしかかりすぎではないか」と、何度も言葉を飲み込みました。それは私がひとり親でなければ「お父さん」や「ご両親」に言葉がすり替えられていたのでしょうか。

もちろん、父親が労働の中心者で母親が育児の中心者の家庭は多い。母子家庭も多い。それは仕方がない。

けれども、子どもたちの課題とその要因改善を母親にを中心に求められるケースは多い。その背景には支援者とされる人たちが無意識のレベルで「子どもの問題は母親の課題」だと言語化しているようにも思えました。それによって、育児がますますつらくなる女性は私だけではなかったと思うのです。

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ここ20年ずっと「少子化対策」と言う言葉を聞すぎています。先30年どうすることもできない少子高齢化社会の日本。それでも、少子化対策はやめるわけにはいかない。けれど、それと同時に既に生まれている子どもたちの生きやすさの対策、育てるものたちの心理的安全性の確保にも目を向けて欲しいところです。

支援の拡充と同時に発達障害への理解の充実が必要だなと言うのが、私が小学生2人を育てた中での感想です。

兎にも角にも、親も子どもも支援者も、みんなみんなお疲れさま!

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