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カエサルの物はカエサルに

11月4日の朝日新聞 鷲田清一の「折々のことば」
では

正気を失わずに、ただ信仰に属するところのもののみを信仰にゆだねるなら、それはたいへん健全である。 フランシス・ベーコン

という言葉を引いている。あわせてとマタイの福音書の「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に」を引いている。
昨今の政治と宗教の関係に関しても以上の言葉は大切だと思う。
政治家が宗教教団の力を借りようとする。宗教教団が政治家の力を利用しようとする。この点を佐々木閑先生は『「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書)』

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で「布施と見返り」で政治家への政治献金の問題を布施との関係で以下のように述べている。

ただし、ここには政治の世界特有の問題がある。仏教や科学の場合なら、布施した人は、その布施が直ちに現実的利益になって戻ってくるとは考えない。 「いずれ遠い将来、なんらかの形で見返りがあるかもしれない」といった漠然とした期待感だけである。しかし政治家への布施は、すぐに見返りが戻ってくる可能性が高い。つまり、布施の見返りとして政治家に働きかけてもらって、社会状況を自分の利益に繋がる方向へ動かしてもらおうという期待である。これは、特定個人の利益のために政治家が活動するということだから、「社会全体の利益を目標とする」政治家の基本理念とは合致しない。合致しないが、税金からの薄い布施だけでは活動不可能な政治家にとっては貴重な資金源であるから、受け取らざるを得ない。また、選挙という「出家するための資格審査」が定期的にやってくる以上、特定団体にこびをうっておく必要もあり、どうしても「政治献金と、そのみかえりとしての個別利益のための政治活動」というセットは防ぐことができない。                                                                               しかし重要なのは、社会の中の特定個人や特定団体の利益のために活動することは、政治家としての本筋ではないという点である。なぜなら、政治世界の基本部分は、その社会全体からのお布施、つまり税金によって維持されているものだからである。国会議事堂をはじめ、政治のための箱物も運営費も人件費も、基本部分はすべて「私たちのこの社会全体を平和で安らかな状態に導いてほしい」と願う人々の税金で成り立っている。そこで出家するということは「仕事をやめた私は、社会全体からのお布施で生きる身となりました。ですからこれからのすべての人生を、社会全体に利益をもたらす活動のために捧げます」ということにほかならないからである。特定団体からお布施をもらって、その団体のためだけに活動するなら、一銭たりとも税金の恩恵を受けてはならない。(178,179頁)

「「政治献金と、そのみかえりとしての個別利益のための政治活動」というセットは防ぐことができない。 しかし重要なのは、社会の中の特定個人や特定団体の利益のために活動することは、政治家としての本筋ではないという点である。」
の指摘は重要であろう。
○○学会なども政権与党の政治団体を支援しているのだから現行法律では容認されている。しかし、「社会全体からのお布施、つまり税金によって維持されている」わけで政治家は「社会全体に利益をもたらす活動のために捧げ」ることをしなければならない。その教団を支持することの影響力等はよく理解するべきだったと思われる。特に今回問題となった教団は、従来から宗教学者から問題視されてきた。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から 』


とにかくページを読み進むにつれ、滝のように冷や汗一教会(世界基督教統一神霊協会、現世界平和統一家庭連合)」が、信者にどのような心理的影響を与えて、信仰をコントロールするのかを述べているのだが、当時の私自身も「統一教会」という多くの批判を浴びている教団に、今さらどうして優秀な若者が入るのだろうか、と疑問を持っていた。最初からわかっていたら絶対に入らないような宗教に、どうして彼らは入信して自分の人生を捧げてしまったのか。                                                                                                       その問いに、西田は勧誘や育成の過程で使われる様々な心理学的なテクニックを説明し、徐々に信者に「ビリーフ(我々が個人的に保有する知識や信念)」が形成されていく過程を、詳細に論じている。それがどうして衝撃だったか。統一教会が使っている心理学的なテクニックが、私たちが親鸞会で使っていた勧誘・育成手法と恐ろしく似ていたからだ。

とある。著者は親鸞会から脱会の過程で、旧統一教会の手法(マインドコントロール)を分析したものを読むことで、自らが行っていることがに疑問を持ったことを表明している。ここまで有名だった問題行動をする教団の支援を受け、見返りとして元総理が宣伝をする。かなり問題があると思われる。

宗教と政治の問題を考えるとき、○○学会の件もあり、日蓮聖人の思考が往々にして問題にされてきた。特に『立正安国論』はかつて震災天罰論が巻き起こったときにも問題視されている。ここでは、かつて自分が『立正安国論』において政治と宗教をどう捉えていたのかをで検討したものを一部抜粋しよう。現代宗教研究 第44号 岩田親靜「『立正安国論』考」

中略) マキアヴェッリの言葉ですが「天国へ行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」と知り、その線で生きていける人のことです。                                                                                                                          ところが、不安と絶望の時代では、地獄に行く道とは何かを知ろうとも努めず、ただただ天国に行こうと願ったあげくが地獄に行ってしまったと言うことになる。 塩野七生『神の代理人』新潮社 四〇八・四〇九頁)
   右は塩野七生『神の代理人』のメイキングでのべられた文章である。 「神の代理人』メイキングでは「政治が機能しなくなる」ことにより「安全と食の保証という人間の二大要求を満たせなくなる」 結果として人々は「強力な何かにすがり」 つくとのべている。                                                               『安国論』は、安全と食の保証という人間の二大要求を満たせなくなった現状を憂い、その原因を強力な何かにすがろうとする精神であるとし、為政者の精神を正すことで政治を機能させようとするものではないだろうか。    また、「不安と絶望の時代では、地獄に行く道とは何か知ろうと努めず、ただただ天国へ行こうと願ったあげく地獄に行ってしまった、ということになる。」という指摘は、現実を直視しせず、 弥陀にすがる浄土教のイメージ(『安国論』「今世には性心を労し、来生には阿鼻に堕せん」とも符号する。(150、151頁)

ここでは「為政者の精神を正すことで政治を機能させようとするものではないだろうか。 」と考えた。となると現代に日蓮聖人がいるならば、特定の宗教団体を支援することを積極的に行うことは否定されるであろうし、あえて第三者的立場(ジャーナリスト的立場)にたっただろうと 思う。

 しかし今回の選挙では、日蓮宗も(檀家さんだからということが理由か?)で支援をし、宗報にも載せていた。これは、上記の考えから言うならば問題であろう。
今回の一連の報道は、宗教と政治のバランス、我々の立ち位置をもう一度考えるべきことを表している。都合ではないあり方を考えるべきではないたろうか?それは、己の立ち位置すら危ぶられることかもしれない。でもだからこそ、聖域を設けず見直すべきではないだろうか。




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