本を読むということ
毎朝、何時ごろ起きているの?とお坊さんをしているからかよく聞かれます。
夏は大体遅くても4時には起きている。といっても寝るのが、9時ぐらいだからしっかり寝ている。家族が起きてくるのが、6~7時だから、この時間は、純粋に趣味の時間となる。大概、読書と洗濯して干しながらユーチューブや映像を見る時間になる。
この時間があるかないか?が自分の1日の精神的余裕につながっている。一時間から二時間は、必ず読むもしくは聞くをしている。ちょっとでも良いから今より前へ、新しい視界をと考えるようにしている。
でも、読書を行うを好きになったのは、大学に入ってから。それまでは、大嫌い。
真面目に本を読むようになったのは、大学の通学時間が暇すぎという理由。その頃は、『銀河英雄伝説』にはまったり、宮城谷昌光さんにはまったりしていた。
本格的に読み始めたという意識は、つい最近まで、なし楽しんで読んでいた。おかげで仏教書を義務的に読んでた時間は長い。
ただ、大学から修士課程の間に、寺に一年勤めた時代があり、その間、塩野七生『ローマ人の物語』にはまり、後の研究の重要な視点になった。
視界をかえる
大学院時代、日蓮聖人の『守護国家論』と『立正安国論』の差異を論じたことがある。このとき、『ローマ人の物語』でカエサルの『ガリア戦記』と『内乱記』の微妙な著述の差異がヒントとなり論文をまとめた。
全く違う時代の違う人物を理解するのに、ヒントになるとは・・自分でも驚いた。
一人の人物が書いたからといっても相手によって書き方は違うし、その影響により人生は変わっていく。後世を生きる我々は、結果からその事実や文献を見てしまうし、場合によっては都合にあわせて見てしまう。
時代や状況を詳細に再構築し、そこにテキストと著者を置く。すると、初めて言葉の意味の真意がわかる。
僕はタイムマシンに乗るとよく言うが・・。
たとえばだが、日蓮宗ではお題目を唱えることを色読といい大切にするが、今の時代の唱えるという行為と鎌倉時代の辻で唱えるは同じ価値なのだろうか?
行為だけなら同じだが、多分違う。現在、お題目も唱えても牢屋に入ることはないし、秘密警察に引っ張られることはない。しかし、鎌倉時代は牢屋行き、場合によっては殺される時代だった。(熱原法難がよい例)
とすれば、唱えるとは、覚悟を示していると言える。現在の価値で過去は計れない。
逆に言えば、歴史の再構築をなせば発見もあるし、現在への教訓を作り出す。
こういうことに楽しみを感じ、生きる。それが学問の楽しみであり、それを促すのが知の横断なんだと思う。
ちなみに、家族への洞察力は低い私・・なんでだろう。
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