短編小説【タツノオトシゴ】
タツノオトシゴの形をしているんだよ、文京区音羽という町は。
そう祖母に教わったのは、直[すなお]が5歳の春だった。地下鉄の江戸川橋駅の改札を出て、大人がちょうどすれ違えるほどの階段をゆるやかなカーブに沿って上る。すると急に視界が開けて、真っ青な空が直の目を射た。ぎゅっとつぶった目をようやく開くと、遥か頭上を大きな竜がうねりながら悠然と昇って行くように、首都高速道路が伸びていた。
その光景に見とれたまま、直は祖母に手を引かれて神田川に架かる橋を渡った。右手は音羽通りだという。交通量が多く大型車両も行きかっているため、おのずと祖母が車道側を歩き、直は幅の広い川を見下ろしながら歩いていた。今朝までの肌寒さがだいぶ和らいだ、光の強い午後だ。川沿いに続くつぼみを着けた桜の並木に縁取られて、川はキラキラと陽を返しながら流れている。同年代の男児の平均より身体の小さい直にとって、神田川は大き過ぎて、とくに遠くのほうは水の塊のように静止して見えていた。小さな洲に白サギが一羽佇み、羽を休めている。思っているよりもずいぶん深いのだと、丸々とした鯉が重なって泳いでいく姿から分かった。
川の手前のほうには堰があり、橋の真下辺りで小さな滝になっている。まるで凹凸型の屏風を、水流に垂直に刺し込んだようだ。川の中央辺りはとくに堰の内側が深く流れが速いらしく、黒や緋色の鯉の群れが、逆らって弧を描きながら渡ってゆく。
水流は堰の上から勢いよく溢れて落ち、激しい音を立てながら空気と水とをかき混ぜ続けている。一方で堰によって水流は削られて薄くなり、ほどけ、パシャパシャと弾けてもいる。
その様に気を引かれて直は橋の途中で立ち止まると、柵を左手でつかんだまま水の動きに見入っていた。
「直はお水が好き?」
久しく誰かに呼び捨てにされることがなかったので、直は今朝から祖母に呼ばれるたびに驚く。そして、祖母の問いは直にとっては答えることが難しいのだった。
確かに今は目を奪われているけれど、川が好きかどうかまだ自分で分からない。いや、祖母は水が好きかと聞いているのだ。雨や水たまり、水道から流れ出てくる水、他に水といえば何があったろう? 何より、どう答えれば嘘にならず、祖母を怒らせずに済むのだろう? いや、考え込んじゃダメだ。早く返事をしなくちゃ。
直がうなずくと祖母は微笑んで、「池袋に水族館があるから、近いうちに一緒に行ってみようか」と言った。直の気持ちはすぐに言葉にまとまらず、言葉にできても、いつも滑らかに口から出てこない。息苦しい少しの間があり、ようやく直は照れながら返した。
「あ、あの、ありがとうございます」
「楽しいよ。海や川の生き物がたくさんいるの」と、祖母は目を細めた。まとめて結い上げた髪に刺したかんざしの、オパールの輝きが揺れていた。直の返事が遅いことをとがめることも、反応の薄さに苛立った様子を見せることもなかった。そしてしばらく並んで川を眺めた後に、「そうだ、直」と言った。
「タツノオトシゴの形をしているんだよ、文京区音羽という町は」
「文鳥と、おとわ?」
「文鳥?」
祖母はそう言って笑うと、あらためて区の名前を教えてくれた。地図上の音羽という町を線で囲むと、タツノオトシゴによく似た形になるのだと言う。
「今日から直が暮らすところの名前だよ」
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