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「愛された、愛されている」そんな記憶だけで人は生きていける

「え、え・・・・・・」
オンラインの会議中に思わず、
つぶやいてしまった。
会議が終わるまでの10分間の記憶がない。

こんなことは今までなかった。
私有のスマホにこの人の着信履歴は。
たまたまオフィスに出社していた私は、
セキュリティカードも忘れて飛び出した。

携帯電話を祖母にプレゼントしてから、
10年以上がたつ。
「いつでも電話してね、飛んでいくから」
そんな気持ちを込めて
携帯電話の設定をして渡した。

当時から祖母はアクティブだった。
カレンダーの予定はグランドゴルフ
や水墨画などの
習い事で埋まっていた。

私がフラフラしていた
大学時代なんかよりよっぽど
忙しい時間を過ごしていたんじゃないだろうか。

そんな祖母も92歳。
相変わらず元気なのはありがたい。
本当にありがたい。

そんな祖母からの突然の着信である。
まさか何かあったのではないか。
両親が同居しているとはいえ、
昼間はひとりでいることも多い祖母。

コール音がこんなに長く感じたのも
はじめてだった。

驚きながら、かけなおすと
いつもの甲高い元気な声だった。
心の底からほっとすると同時に、
やや言葉のキャッチボールがしづらくなったなぁ
と思いつつも私は26年前の記憶を辿っていた。

1996年の10月。
新宿駅から少し歩いた大きな総合病院。
当時13歳の中学1年生だった私は祖父の
手を握っていた。

不思議とこれが最後なのではないか。
そんな予感めいたものはあった。
お見舞いの帰り際に、祖父と握手を交わす
のがいつも儀式だった。

私は最後の力を振り絞るように、いつもより
強めに握ってきた祖父の手の感触をすぐに
察することができた。

言葉にならない、言葉というもの。
言葉がなくても伝わること。
そんなことをはじめて認識した。

その場で涙をこらえ、病室を出て
ナースステーションの横のソファで
私は崩れ落ちて泣いた。

私の幼い記憶は、祖父母との
思い出で満たされている。
両親は自営業で、飲食店を経営しており
昼も夜も土日も関係なく働いていた。
おのずと祖父母といっしょにいる時間が
多かったのだ。

一緒にいる時間の長さもあろうが、
祖父の最後の言葉にならない言葉を
受け止めて生きている。

その込められたメッセージとは。

それは祖母を守ってほしいということである。

きっとそれだけが祖父の心残り
だったと思うから。

60歳で定年退職し、
私も含めた8人の孫にも
恵まれ余生を過ごしていた。

好きなだけ趣味の映画を見て、
好きなだけジグソーパズルと
プラモデルに打ち込んでいた。

いまいろいろ思い返しても幸せな
人生だったのだろう。
少なくとも自分だったらそうだろう。

そしてその最後を迎えようとしたあのとき。
私に託したのだと勝手に解釈している。

だから私には覚悟がある。
何かあれば、なけなしの財産を
投げ売ってでも祖母を守ろうと。

男同士の約束ってやつがあるなら、
私が守るべき約束はこれしかない。

長年サラリーマンをやってきて、
他人に誇れるような仕事は
何一つやってこなかった。
できなかった。

ただそんな自分でも誇れる使命がある。
幸せなことだ。

幼いころ、祖父母がいつも横にいた。
いつも笑ってくれた。
愛されていた記憶。
それは変わることがない。

過去は過去だ。
変えられない。
今を見つめて、未来のことを考える。

どんなに辛いことがあっても、
過去の幸福な記憶が人の生きるチカラに
なることってあるんじゃないだろうか。

タイムマシンなんかなくったって
記憶の中でいつでも会える。

愛された、愛されている。
その記憶で人は生きていける。

そう信じている。


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