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クリスチャンとしてどう生きるか

イエス・キリストを知った。イエスの十字架と復活が自分のための愛だったことを知った。知ったのだから、自分は、知る前の状態にはどうやっても戻ることはできない。自分にとっての救いや信仰は不可逆的なもの。もうそれ以前には戻らない。そうやって示された神の愛から引き離されることは決して無い。

救われる前からも、救われた後からも、同じ罪を犯してしまうことはある。もちろん、悔い改めてもう罪を犯さないよう、神に変えていただけるように助けを求め祈る。ただ、罪ですら、自分の救いを奪うことはできない。イエスの十字架の死によって、神の敵だった自分が神の子とされたことが、救いだから。

人生でうまくいかないこと、自分や愛する人に降りかかる不幸、あらゆる苦難と辛さ、死ですら自分から救いを取り除くことはできない。死んだ後で神の前に立つことになっても「どうしよう敵だった」と気まずい思いをすることはないとわかっているから。子として天の父の元に帰ることに何の不安があろう。

悲しみや苦しみはなくならない。避けることもできない。けど救いを通して、自分は新しい関係を得た。神と自分の親子関係、そして神の家族となったクリスチャンの兄弟姉妹との関係だ。その関係があることで、悲しみや苦しみも分かち合い、他者の悲しみや苦しみを負い、自分のも負ってもらい、減らせた。

クリスチャンとして生きることは、自分にとっては、その決して失われることのない救いの喜びをいつも手に持って人生を生きていくことだ。何かの戒律に縛られて、何かを禁止されて、何かを我慢しながら、嫌々ながら何かをやらされ無理に生きることではない。救われる前より、自分は自然で自由になった。

救われて得た自由とは、神と他者を愛させない圧力からの自由だ。愛さない罪の拘束力からの自由だ。愛することよりも優先順位の低いあらゆる事柄、見栄え、金銭、学歴、職歴、地位、人脈、名誉を、もう気にする必要がなく、頓着しなくていい自由だ。神は愛だ。愛は真理だった。真理は自分を自由にした。

クリスチャンになって、無条件に従うよう圧力をもって自分に迫る社会の因習や流行、自分に何かをやらせようとしてくる他人に、是々非々で自分で考えて判断を下すことが苦にならなくなった。それは神を愛することか、他者を愛することか、イエスだったら、そうするのか、それが判断の軸になったからだ。

愛を行動や言葉で示す時、クリスチャンになる前だったら、小っ恥ずかしくてできなかったようなことも、大胆にできるようになった。恥や外聞を気にしなくても良い自由を得たからだ。自信をもって愛することを、正しいこととして実行しても良いことを知っているからだ。そうやって愛する時、喜びがある。

愛の行動や、言葉をかける時、失敗するかもしれない。神を信じる信仰とは、愛のためならば、愛の行動を成功させてくれるよう見えない裏舞台で働く神を信じることだ。例え失敗に見えても、最終的には転じて益に変えてくださると信頼を置くことだ。すると不安は消え希望が持てる。信仰と希望と愛は残る。

愛の働きの協働者として神を信頼し、その働きの結果に希望を持てば、時間はかかっても実は結ばれる。その実は飽食や富や栄誉にすら満たせない根源的な人の飢え乾きを満たす。パンだけでなく神の言葉が、神の御心である愛の行動が、イエスを満たす本当の食物だったし、本質的に自分に必要な食物だった。

愛の実践は、食べれば食べるほど減るパンとは違い、行えば行うほど喜びが積み重なる。数十年で失われる容姿、財産、地位、健康とは異なり、地上で生きる間も死んだ後も、永遠に傷つかず錆びず保たれる宝となる。体もお金も針の穴を通らないように天には持って行けないが、愛した事実は天に持ち越せる。

自分の属する世界の王は神だと認める人にとって体も持ち物も時間も命でさえ神から授かったものだ。自分のものは何もない。あっても、くれた神の願うことのために使いたい。それが神の国に生きる者の生き方であり、神の子救い主イエス・キリストが教え、模範を示し、死に様によって示した生き方だろう。

クリスチャンとして生きるとき、主の祈りのはじめに祈るように、神の国がこの地に来るよう願う。それはこの世のただ中にあって、イエスの生き方を模倣して生きようとする願いだ。愛と義のあふれる世界への願いだ。神の国とその義を第一にしたい願いだ。そう願う祈りなら、神は叶えてくださると信じる。

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