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シスター・ムーン

月が付いて来る。

それに気が付いたのは、私が幼稚園の頃、田舎の祖父母の家へ向かう、ローカル線の車内だった。
真っ暗な田舎道を走る電車から、ぽっかりと空に浮かぶ大きな満月が見えた。
「どうしたらお月様が付いて来なくなるの?」
私はなんだか怖くなって母に尋ねた。
「遠くに見えるものはね、いつまでも付いて来るんだよ。」

私は追って来る月をずっと見ていたが、突然見えなくなった。
列車の向きが少しずつ変わったから、車窓から見えなくなったのだ。
でも、田舎に広がる景色は月明かりに照らされていて、月の姿が見えなくても月がずっと存在していることを語っていた。
月がきれいな夜は、全てのものがざわつく気がする。

あのとき、何と声をかけてもらったら落ち着いたのだろう。

『欠けていってるから、月。大丈夫ですよ。』

西加奈子さんの小説『きいろいゾウ』で、“ムコ”が満月の夜は決まって体調の悪い“ツマ”に言った言葉だ。この言葉は、人より“小さな心臓”を抱えて生きる“ツマ”をこの世界に繋ぎ止める。

夫婦である“ムコ”と“ツマ”は、物理的な距離こそ近い。
だが、好き合ってはいるが、心の距離は月と地球くらい離れていて、こういう心の通い合っていない夫婦にはなりたくないとも感じるし、夫婦間の問題が物語のラストまですっきり完全に解決することもない。
でも、なぜかこの清濁のある小説が愛おしい。
月齢、満潮、干潮、月経等の月が関連するキーワードが、田舎に住むこの夫婦と、彼らを取り巻く人々との生活と共に色濃く描かれる。
そして、波のように満ち溢れてゆく生命力に対して、そっと引いてゆく生、つまり死が、鮮明に描かれている。


地球は、月の引力の影響を受ける。
だから、地球上に住む生命体の全ては生涯、月の影響を受けながら生きてゆく。特に女性の身体は、目に見えて月の影響を受けているのではないだろうか。
お母さんのお腹の中にいる胎児の羊水も海水と同じ成分であると聞いたことがあるから、女性の身体以上に月の引力を感じているに違いないと思ったりする。

『月と農業』という中南米の月齢に応じた農業と畜産の作業を紹介した本がある。

そこで、月光と生物の関係について記述されているのだが、満月のときは、『地球上の生物がよく生長し、生き生きとしており、強くかつ柔軟性に富み、病気に対する耐性もある。月が欠けてゆくに従って、すべては傷つきやすくなる』という。
また、満月のときは、海潮が上昇するのと同様に体内を流れる血液も騒ぎだし、ヒト(女性も男性も)神経質になって常軌を逸した行動に出ることがあるといい、『満月の夜は、愛と戦争の夜』と言い伝えられているそうだ。

月には二面性があるのだ。だから、その美しさに安らぎを与えられることもあれば、逆に心乱されることもある。

月のきれいな時期になると、なぜか私は必ず、イタリアの修道士であるアッシジの聖フランチェスコの半生を描いた『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画を観たくなる。

日本の神道では、太陽を司る天照大神を女神、月を司る月読命を男神としていて、二面性のある荒ぶる神として崇めているのに対し、フランチェスコは地球上に存在するすべてのものを神の創造物である、兄弟姉妹として賛美している。
本映画は、放蕩息子であったフランチェスコが戦争から奇跡的に生還し、全てを捨て、イエス・キリストの教えに従い、病に苦しむ貧しい人々に生涯を捧げて生きる中、人々の弾圧に遭いながらも、ローマ法王から活動の許可を得るまでを描いたものである。

この映画で私の最も好きな場面が、フランチェスコが生死の境を彷徨い目覚めた後、世界に存在するあらゆるものが美しいことに気付き、愛おしむようになるところである。
そして、フランチェスコは世界の美に気付いた後、貧困、病、差別等の人の世界に潜む影や醜さも知り、真の親である神(キリスト教における創造主のこと)の道具となって貧しい人々に奉仕する道に進むべく、何一つ不自由なく育ててくれた両親に全てを返し、裸になって感謝と共に両親と訣別する。しかし、フランチェスコと両親は、物理的な距離こそあるものの、心はいつもお互いを想って生き続けているところが、切なく愛おしい。

この映画を観ていると、この親子関係は、何かに似ているなと思う。
まるで『竹取物語』のかぐや姫と、翁と媼のようだ。

親が思う子の幸せと、子の思う幸せは、きっと違う。だけれども、物理的な距離ができるとき、心の距離はグッと近付く。

寂しい夜、眠れない夜は部屋を真っ暗にして、カーテンを開けて横になる。
運が良ければ、闇夜にぽっかり浮かぶ、まあるいお月様が見える。
お月様からのびてくる光の筋の中には、かぐや姫のように罪の清算をすべく新たに地球に送られる人々、そして罪の清算が終わって月へ還る人々がいるのかもしれない。
その光の筋を、私は握れそうな気がして手を伸ばす。だが握ることはできない。

私がこの世界に送られるときに月の世界と約束した“罪障“は、まだ“消滅”していないのだな、と気付く。
その後、私はいつの間にか眠りについている。

(了)

☆ ☆ ☆
本記事を書くにあたって、下記の文献の中の『竹取物語』を参考にしました。



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