見出し画像

『サピエンス全史』作者の緊急寄稿を読み解く vol.2  高校世界史の教科書で分析

ユヴァル氏の緊急寄稿の要約についてはこちらで

寄稿の中で、感染症の歴史について述べられているところがあります。

スクリーンショット 2020-03-27 12.05.38

このような感染症がどのように歴史に影響を与えてきたか、高校世界史の教科書を使いながら説明していきたいと思います。

今回使用する教科書は
帝国書院 新詳世界史B です。

画像2

ペスト

ペストの記述は3か所で出てきます。

一つ目

巻頭の「自然環境と人類の関わり① 気候変動と歴史」

画像4

「地球は何度となく冷え込み, そのたびに飢僅や疫病が人類を襲った。14世紀半ばには, ペスト(黒死病)がユーラシア全域に広がったが,その時期から19世紀までの気温は世界的に低くなっており, 「小氷期」ともよばれる。

ペストは17世紀のヨーロッパでも大流行した。 1645年から70年間は,太陽の活動がきわめて弱い 時期だった。地球上では、各地で火山活動が活発化して,大気中に浮遊する火山灰が太陽光線をさえぎ ったこともあって,世界的に寒冷化が進んだ。

この時期,ヨーロッパではアイスランド沿岸やバ ルト海が流氷におおわれ, 漁業や海運が打撃を受けた。イングランドでは穀物生産が低下し, 死亡率が出生率をこえて人口が減少した。日本や中国でも, 低温と飢饉が続いている。寒冷化は「17世紀の危機」の重要な背景の一つであった。ただし, その後のイ ングランドでの農業革命など,寒冷化による危機を克服する人類の努力は, 近代世界の建設に貢献した。」

画像3

読みとれる内容
・疫病と気候変動は関連している。
・グローバル化以前の17世紀でも疫病が大流行し、拡大している

二つ目

14世紀から始まった英仏が戦う百年戦争でもペストは現れます

時は14世紀、現在のフランスの領土がイングランド(現在のイギリスの一部)にどんどん征服されていった時代です。

画像7

「1328年フランスではカペー朝が断絶し, ヴァロワ朝のフィリップ 6世が王位を継承した。1337年フィリップ6世がギュイエンヌ地方の没収を宣言すると,イングランド王エドワード3世は母親がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し, 百年戦争が始まった。

スクリーンショット 2020-03-27 16.41.08

イングランド側はクレシーの戦いやポワティエの戦いで勝利し終始優勢であった。戦場となったフランスは荒廃し,さらにペスト(黒死病)の流行や農民一揆がそれに追い打ちをかけた。しかし1429年イングランド軍に包囲されたオルレアンがジャンヌ=ダルクの活躍で解放されると, フランス王シャルル7世は攻勢に転じ,1453年にはギュイエンヌ地方の中心都市ボルドーを奪回して百年戦争を終結させた。イングランドはカレーを残して大陸の所領を失った。フランスでは長期間にわたる戦争で多くの諸侯が没落し,都市の大商人と手を結んだ王権が急速に力をつけた。 百年戦争で戦場とならなかったイングランドでも,その後, 王位継承をめぐってランカスター家とヨーク家の間でばら戦争とよばれる内乱が起こり,有力な諸侯が次々と没落していった。1485年に内乱を おさめてテューダー朝を開いたへンリ7世は, 王権に対する反抗を抑えるため,星室庁を整備した。」

画像5

読み取れる内容
・イングランドに負け続け滅亡寸前だったフランスがジャンヌ=ダルクの登場で逆転した。
・百年戦争中の英仏で、ペストの流行により農民反乱がおこった。
・フランスに逆転負けしたイングランドは内紛になり大混乱した。

次のページ

「 また14~15世紀になると,ペスト(黒死病)の流行やあいつぐ戦 によって人口が減少し, 社会的な不安が高まった。深刻な労働力不足 は農民の地位をより高め,領主が収奪を強化しようとすると一揆を起こして抵抗した。フランスのジャックリーの乱やイングランドのワット=タイラーの乱は, そのような農民一換の中で特に大規模なものであった。そのため地代を増額することもできず,領主の多くは没落し所領を手放して傭兵となったり, 国王の宮廷に仕える役人となったりした。一方国王は, 家系の断絶した家臣の所領を王領地に編入して権力をのばした。また都市の大商人は領主が手放した多くの所領を買収し,国家の官職を得て王権を支える新しい領主になっていった。 こうして荘園制を基盤とする封建社会はしだいに解体していった。」

画像8

読み取れる内容
・ペストの流行は農民反乱をうんだ。
・農民反乱は領主の没落をもたらした
→ 没落した領主の土地は、それまで力の弱かった国王が吸収し、領主に代わって権力を伸ばした。
・ペストによって人口が激減した農奴たちは地位が向上した。一方で領主の地位がさがり、封建制と呼ばれる身分制度は崩壊していった。国王と結びついた大商人たちは新たな領主となり力を伸ばしていった。

三つ目

「モンゴル帝国とユーラシア大交流圏

 12世紀までに徐々に進んできた各地域世界の結 びつきは、13世紀のモンゴル帝国の登場によって一気に加速した。

画像9

14世紀前半にかけて,ユーラシア・北アフリカにまたがり, 陸と海で結ばれた巨大 な交流圏が形成され,ユーラシア規模で人もの 情報の移動·交流が空前の発展をとげた。 草原の道から登場し,早くにオアシスの道を押さえたモンゴルは国際商業の重要性をよく認識してお り、交通網を整備し貿易の保護·振興を行った。モンゴルがユーラシアの主要部分を統合したため, 軍事費·通行税などの負担や隊商が襲撃を受ける危険が少なくなったことも, 活発な商業活動をあと押しした。このようなネットワークを通じてヨーロッパ にもたらされるクビライ時代の東北の繁栄の様子 は、ヨーロッパ人に「豊かなアジアへのあこがれ」を 抱かせ,大航海時代を引き起こす原動力ともなった。」

画像10

スクリーンショット 2020-03-27 16.59.33

読み取れる内容
・13世紀のモンゴル帝国の登場で世界の一体化が一気に加速した。
・ユーラシア大陸から北アフリカに至る巨大なネットワークが登場した。(シルクロード、草原の道、海の道)
・緻密に絡み合った交通網は巨大商業圏を形成した。

「14世紀の危機 1310年ごろから約60年間, 北半球で寒冷な気候,ききんが続き,各地で不作や飢饉が起こった。それまでの 好況で人口が増え,やせた土地の無理な開発や森林の破壊が進んでいたことも,農業生産力の大幅な低下につながった。また,ユーラシアに形成された大モンゴル帝国の下での大規模な交流は,このように強烈な負の側面をもっていた。だが,「14世紀の 危機」をのりこえたユーラシアは,モンゴル帝国から多くの遺産を引きついだ。例えば15世紀以後には,ネットワークが復活して貿易量が増加し,海上貿易がより活性化した結果, 15世紀の鄭和の大航海やヨーロッパ人による「新大陸」発見につながった。これは,モンゴル帝国時代のユーラシア大交流圏の延長線上で実現したものであった。さらには, 西アジアのオスマン,南アジアのムガル,東アジアの清, ロシアなどの帝国は, いずれも効率的な統治組織が整備され,多様な住民構成などをもちながらも, 各地域世界を基盤とする国家としては史上最大の領域 を支配するに至った。

画像13

交流圏の影響で、もともとミャンマー あたりの風土病だったとされるペスト(黒死病)が, ユーラシア西 方に急速に広がり, 西ヨーロッパの人口の3分の1 を奪った。これらによる社会不安は, 盗賊や反乱を発生させ,モンゴル帝国の諸政権はしだいに解体して行った。日本でも14世紀には南北朝の動乱が60 年間続き,朝鮮半島,中国沿岸部の人々は,倭の恐怖におびえた。こうして,ユーラシアの交流ネッ トワークは、一時的に寸断された。」

画像12

読み取れる内容
・モンゴルのネットワークは疫病の伝搬にも役立ってしまった。
・ペストは元々ミャンマーあたりの風土病→あっという間にヨーロッパまで広がり、西ヨーロッパ人口の三分の一が奪われた。
・アジアでは15世紀には巨大な帝国が復活した。

ユヴァル氏の主張

歴史からの学び
① 国境の長期封鎖では自分を守れない
 ⬅︎ グローバル化以前の中世でも感染症は急速に拡大
② 必要なのは信頼できる科学的情報の共有
  ➕ グローバルな団結

高校世界史の教科書を読み解くことでも、ユヴァル氏の主張と共通する部分は非常に多い。


この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?