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強さと支配、個人と民衆、平和と安定と自由のはなし

18-19世紀のヨーロッパの動乱は、中毒で人生を棒に振るほど面白い。

昨日の友は 今日の敵
朝の正義は 夜の犯罪
善悪と政権が目まぐるしく入れ替わる、明日が分からない不安定な世界。
しかし民衆はいつも、「今日強いもの」の味方であり、
なんとなく、現代よりものんびりと生きているように見える。
それは、理念を持つ"英雄"以外は、「自分(とその一族)が生き延びていくこと」だけが重要だからなのだろう。
……逆に言うと、「理念のために、生命すら犠牲にする」それが後世に残る"英雄"になるのかもしれない。

ところで、当時のヨーロッパが混沌としているのは(といっても現代よりはよっぽどましだが)、それまで家畜同然――正確に言うと意思のない、指示に従うだけの存在として扱われていた被支配者が、意思を表明し支配者に反抗するようになったからだ。

支配者なしに存在できる集団はなく、
被支配者なくして集団にはなりえない。
全細胞が好き勝手に動くと、体組織は崩壊してしまう。
被支配者が支配者に反抗されると、もはや支配者でなくなり、支配者と被支配者の区別がつかなくなると、集団は混沌として崩壊する。

では、支配を成立させる要素は何であろうか?
「強いものが弱いものを支配する。」
それはいつの時代も変わらない。変わっていくのは「強さ」だ。
人間がけものに近かったころ、強さ=武力だった。
そして、文明とやらが進むうちに、強さ=歴史(血筋)あるいは、超人さ・浮世離れさ(雅さ)になって、
近代は、強さ=頭の良さになって、
その後、再び、強さ=武力になったりしていた。
そして、現代は、強さ=BUZZである。すなわち、集団で主導権を握るには、多数からの同意と民衆への影響力が必要となったのだ。

しかし、
思い出さなければならない。"民衆"とは"英雄でない"もの、つまり「自分が生き延びていくことが重要」と考える生き物のことだ。
では、この”民衆”が支配する世界がどういうものになるかは容易に想像がつく。
何がバズって、何がディスられるか、
個人に対しては予想できるが、”民衆”のことは誰にも分からない。
武力でも、血筋でも、学力でもない、「民衆からの評価」によって支えられるほど恐ろしいことはなく、なるほど、当時のヨーロッパよりもさらに混沌として不安定な世界になったわけである。

ナウシカの作中で、「民を救うことよりも僧会が権威を保ち、世界の秩序を守ることが大事なのだ!でないと民もろとも全滅してしまう!」というような発言がある。”国”あるいは”一族”…何らかの集団として存続していくためには、それを構成する人間一人一人のことはないがしろにせざるをえない。
個人の集合であるはずの集団は、容易に個人を殺す。
民衆は個人の集団であるが、人間そのものとは違うものである。


”平和”というものが「武力・暴力なき世界」あるいは「安定した世界」を指すならば、実現には唯一で絶対的な支配者が居ればいい。
しかし、”平和”が「ひとりひとりの幸福」「自分らしさ」「自由*」を希求するものであれば、目指すべきは「支配者の滅亡・集団の崩壊」であり、その世界は今よりももっと不安定になると覚悟しなければならない。
そのためには、個々がそれぞれの最適を目指して、日々、学び、考え、話し合い……個々獲得のために闘い続けていくしかないのだ。
それは、戦いを止めればなくなってしまう不安定で落ち着かず恐ろしい世界だけれど、やっぱり”私個人”としては、それを目指さずにはいられないのだろう。

だから、私はnoteを書く。ただ、世界平和のために。

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*ここでいう「自由」とは何もない・何をしてもいい状態ではない。
(現に、無人島に漂流したら不自由な生活と言うだろう。生命を絶やさないための行為にほとんどの時間を消費し、他のことができないからだ。)
つまり、自由とは、自分の意志・行動を何からも阻害・妨害されない状態、ただし意志自体が自分にはどうしようもない以上それは実現不可なので、自由を求め続ける状態、支配に対して抗い続ける状態のことを言うのだと思っている。

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参考文献:
池田理代子『栄光のナポレオン――エロイカ』『女帝エカテリーナ』
トルストイ『戦争と平和』(望月哲男 訳)
宮崎駿『風の谷のナウシカ』(漫画)

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