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14 人間を人間として見るんめっちゃむずい #喋ってなんぼ駒井の「独り言ちてなんぼ!」

音声は以下に上がっています!このnoteと同内容を喋っていますので、ぜひ音声でもお聴きください〜

https://u8kv3.app.goo.gl/aqmqW

男子校病の実相

 就活は終わっても、なんやかんや更新でけへんもんやね、ほんまによっぽど暇なときやないとこういうのんはでけへんのかもわからんな。もう前回の投稿から2週間経ってもうて、結局7月は2回しかできてへんわけやね。己の意志の弱さを痛感する今日この頃やけどもみなさん元気してますか? 最近、東大のツイッター界隈で男女比云々の話が話題になってたんやけど、ほんまにもうこれ(2020/05/05)読んでくれって感じよな。だいたいここにこういう生きづらさの諸悪の根源が詰まっとるから。

https://note.com/hoh0jii3/n/n10a2d79b30b0

俺はこの【04 本当に怖い男子校病の実相<後編>】で、得てして男子校出身者が(見かけのコミュニケーションの成立の出来・不出来に関係なく)女子の「女子であること」という一側面を過剰にクローズアップして捉えてまう傾向のことを「男子校病」と呼んでるわけやけども、本文中でも述べとるように、これは別に共学の男にもあるやろうし、なんやったら女子校出身者の男に対する眼差しも似たようなもんやし、ひいてはうちのサークルにおるインドからの留学生が「インド人である」という特徴を過剰にクローズアップされすぎとるきらいがある話とかにも結びつくとこがある(2020/05/28)。

https://note.com/hoh0jii3/n/nd305ba903c51

結局、未知のもの、異質なものについて一括りで考えてしまいがちな傾向は誰しも持ってるわけで、たまたま東大では男のそれが出過ぎとって一定数の女子に生きづらさを付与してもうてるっちゅう話なんよな。とまあこういう感じでこの「男子校病」っちゅうもんを拡張しとったわけやねんけど、今日はちょっとちゃう方向性での、かつより根源的な部分での拡張を試みたい。すなわち、こういう男子校病患者の眼差しの背景には、「人間を人間として見ることの難しさ」みたいなもんがあるんちゃうかなと思うわけやね。

高校学芸祭あるある

 俺が高校に在学しとったときに務めとった文化委員長というのは、基本的に他校で言うところの文化祭実行委員長みたいなもんで、そういう風に説明することも多いんやけど、実はもう1つ大事な仕事があって、それが高校学芸祭(クラス対抗で各クラスの有志が10分間の寸劇を行うっちゅう行事)の運営を執り行うことなんよね。文化祭に比べて規模はかなりちっちゃいねんけどぼちぼち大変で、これなんで大変かって言うたら、委員長に就任して一発目の行事であるというのもさることながら、クラス対抗であるというところがデカい。文化祭はなんやかんや言うて学校全体で1つの文化祭の総体「灘校文化祭」を作り上げる(ほんでそれを客に見せる)みたいな方向性である一方で、学芸祭は外部の客も入れんと内輪で競う感じであるがゆえに逆に結構バチバチでピリついたりするから、そういう雰囲気がちょっと大変なんよな(まあそれがおもろいとこでもあんねんけど)。で、これは運営にはそない関係ないことやったりもするんやけど、クラス間のその感じに加えて、やっぱりクラスの中でも誰がイニシアチブをとって諸々考えていくかとか演出のどうこうとかで揉めたりすることもあるわけやな。ほんで、俺が文化委員長をやってたときも、俺のおったクラスでそういう現象が起こっとったわけや。

人を駒のように

 そんななかで、当然のことやけども委員長っていうのは一応クラスとは切り離された存在として運営をすることが求められとって、すなわち自分のクラスのあれこれに口を出しすぎるのもちょっとな、みたいな雰囲気があるんよ。それゆえ、うちのクラスで起こってたごたごたとかに関しても、1クラスメイトとして一応俺なりの意見はあったし、それは反映させたいとこやってんけど、なかなかそれも難しい状況やって、あんまし目立たんようにあれこれ動いたりしてたわけやな。ほいだら、まあ詳しい文脈は忘れてんけど、その一環でおんなじクラスのとある級友に陰で「あいつは人を駒のようにしか見てへん(駒井だけに)」みたいな感じで言われてたらしいんよ。正直その文脈で言われるべきことかどうかで言うたら疑問やったんやけど、たぶんそいつは俺の普段からの生き様を見てそういう発言に至ったんやろうし、俺も言われてることを知ったときに結構刺さったというか、割と言い得て妙な部分があるなと思ったわけやね。

脳内将棋盤なってもうてる説

 俺はなんやかんやで昔から人間観察がめっちゃ好きで、小学生の頃からもう半分それ目的で学校行ってたみたいなとこあったんよな。その持ち前の性と、権力とが結びつくと、まあ割と脳内で将棋さしてまうというか、俺がこう動いてあいつがこう動いたらこいつはああなるかな、みたいな感じで俺の思い通りの盤面にしようとしてまうきらいがあるんかも分かれへんな。ほんで、中高時代を通して俺はかなりいろんな役職についてきたし、その癖がいっちゃん出とった時期なんかもなという気がする。特に中高時代ってやっぱりまだまだ世界が狭いから、盤面を読むことにめちゃくちゃ意味があるような感じもあったしな。まあでもそんな感じやったから、間接的にでも「人を駒のように見とる」って言われたんはほんまにその通りやなというか、ああ、決して全否定できひんなと思ったんよね。ほんで、今思うと、現在においても全然この傾向は残ってるんよな。ちょっと人間の特徴的な性質およびその関係性を俯瞰で見た上で、いっちゃん自分の思い通りになりそうな手を打つという生き方、ほんまにやめられへん。というか、処世術として優れすぎとるんよ。まあでも大学に入ってからは多少マシになったなとは思うわ。世界が広がったりいろんな経験したり純粋に歳を重ねたりすることで、「あんまりセコいことしても結局そないええ結果にならん」っていうことを感覚で学べた気がするんよな。やっぱりね、姑息なことしたらあかんのですわ。

他者は人生を彩るコンテンツか

 ほいだら、なんでそんな人を駒のように見てまうんやろなと考えるわけやけど、結局のところ、unconsciousのうちに、ついつい他者を「己の人生を彩るコンテンツ」やと認識してもうてる部分があるんとちゃうかということに思い至るわけやね。俺は人がめっちゃ好きで、それは、まず意思疎通ができるし、みんながいろんなこと考えてるんっておもろいし、みたいなことやねんけど、周りに人がおることによって自分の人生がめちゃくちゃ豊かになるというその利益を享受してるという感じの発想なんかもしれんなと思うんよ。それは、人間のことを人間としてちゃんと見てるかって言われたらやや不十分やと言わざるを得んようなとこがあるよな。

人間のことを人間として見るんは思ってるよりむずいぞ

 でも、みんな果たしてそれできてるか?って言われたら微妙やとも思うねん。ほんまに他者を「自分の人生を彩るコンテンツ」やと思ってへんと言い切れるか? 人を駒のように見てまうっていうのはその表出の一形態に過ぎひんくて、みんななんやかんや様々な形でその発想が行動に出てもうてるんとちゃうんか。そうやないと、たとえば有名人が有名税を払わされとるような現状にはならんやろ。結局あれかて、同じ人間であることを忘れてみんなが必要以上に叩いたりとかいろいろしてもうてるっていうことやん。もう人間やのうてコンテンツとして消費されとるわけや。まあでも、有名人っちゅうのは有名であることによって飯食うてる側面もあるやろからそこに税金がかかるんはまあしゃあないかなとも思う部分もある。より問題なんは、それで金もろてへんのにコンテンツなってもうてるやつな。たとえば犯罪者とか、世間はあんまり人とは思ってなさそうよな。ほんでその延長上に、全ての「他者」に対してそういう眼差し向けてもうてるとこない?っていう警鐘があるわけや。男子校病というのは最も身近な例とも言えて、女性に対して「アリ」とか「ナシ」とかみたいな喋りを展開してまうのも、その背景には「目の前の人のことをそない人間として尊重してへんくて、コンテンツやと思ってもうてる」っていうのが確実にあるよな。

だからどうせえっちゅうことでもないねんけどな

 というわけで、人間を人間として見るっちゅうのは難しいことやと思うという話を喋ってきたわけやけど、これほんまにどうしようもないことよな。他者をコンテンツやと思わんなんて正直無理やから。でも、その事実をちゃんと念頭に置いとく、すなわち、己が業を背負って生きとるんやという意識をちゃんと持っとくことによって、世の中もうちょいええようなるんちゃうかなと思うわけやな。俺もちゃんと己を省みて、努めて人間を人間として見ることを心がけたいと思いますわ。まあ心がけたいって言うてるだけで、実際は全然でけへんのやろけど。というわけで今日はこの辺にしとこかな。また次回を楽しみにしといてください、ではでは出羽山脈〜〜


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