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09 関西にも人間は無数におんねんけど #喋ってなんぼ駒井の「独り言ちてなんぼ!」

音声は以下に上がっています!このnoteと同内容を喋ってますので、ぜひ音声でも聴いてみてください〜

https://u8kv3.app.goo.gl/K2rkV

コテコテが2人以上おるとき!

 前回もうだうだ言うてたように、俺はmother tongueの力をかなり信じてて、普段から全開で喋るわけやねんけど、当然ながら東京でそれが異質とされることもぼちぼちあるわけやな。まあでも東大っちゅうのは一応全国から人間が集いがちであるがゆえに、関西弁話者っていうのはぼちぼちの勢力になっとって、最初に入ったクラスにも5人以上くらいおった。今から思ったら、東京来て最初のコミュニティがそんな環境やったんはほんまに恵まれとったな。もちろん、俺自身にとって居心地がええとかのびのび喋りやすいみたいなこともあるんやけど、周りのみんなが俺に「関西弁」というラベルを過剰に貼らへんかったというのがデカい。いやそりゃあ関西弁なんは大きな特徴やと思うしある程度はその印象もあったやろけど、おんなじクラスに5人も関西弁話者おったら俺がおらん文脈でも関西弁の話されてる空間があるわけで、すなわちそのカテゴライズにおいて俺のみを識別することは不可能やったわけやな。ほんで特に良かったことは、俺並みに、なんやったら俺以上にコテコテのやつがもう一人おって、そいつの性格とかが俺とは結構ちゃうタイプやったんよ。そいつがおってくれたおかげで、「コテコテの関西弁」の複数の異なるサンプルが出現したわけや。

コテコテが1人しかおらんとき...

 ただ、やっぱり東大から離れていけばいくほどコミュニティ内の関西弁率は下がっていくわけで、そうなってくるとこの特徴が「キャラ」として扱われる文脈も増してくる。前回もちょっと喋った、いっとき働いとった飲食店バイトはかなりその傾向が強くて、かつ俺のそない好みでないいじられ方されて嫌な思いをしてたわけやねんけど、ここではより俺が自らを晒け出しがちな、俺の所属してるインカレサークル東京大学合唱団あらぐさの文脈を取り上げたい。ここは長いこと、もう2年半くらい俺が生活の軸としてるコミュニティであるがゆえに、さすがにこの「コテコテの関西弁」という特徴も相対化されて、改めてクローズアップされ過ぎることもないんやけど、とはいえコテコテの関西弁話者のサンプルが俺ぐらいしかおらんっちゅうのも相まって、「コテコテの関西弁話者」という概念そのものが逆に俺の存在によってカテゴライズ化されてるきらいがあるのではないかと思うわけやね。

コテコテとはなんや

 そもそも、「コテコテの」という表現は「関西弁」(特に「大阪弁」)を導く枕詞のような用いられ方がなされがちで、それ自体がやや不適切やと思うんやけど、この「コテコテ」とはどういう状態なんやろうかっちゅうことについて、ここで定義することを試みたい。一応俺としては、「自らと大きく異なる喋り方をする人間および人間集団と会話をする際、多少なりとも相手の喋り方に影響された喋り方をしてしまう」ということを前提に、その影響を受ける度合いが小さければ小さいほど「コテコテ」であるという風に定義したい。これは自らの話し方がどのようなものであっても適応可能やと考えてるから、すなわち、「コテコテの東京弁話者」みたいなもんも想定できる(というか実際におる)と思うわけや。東京の言葉を喋る人でも、方言に引っ張られてエセ〇〇弁が出てまいがちな人おるけど、それは全然コテコテやない、逆に全然引っ張られることなく東京の言葉で喋り続ける人はコテコテの東京弁話者であると、そういう具合やな。それで言うと、関西弁およびそれに類する言葉喋るようなやつっちゅうのはあらぐさにもぼちぼち一定数おんねんけど、「コテコテ」ではない人が大多数を占めるんよな。ほしたら、そういう人らっちゅうのは、俺のおる文脈で喋っとるときは関西弁やけども、東京弁話者と喋ったら割と東京のアクセントで喋りがちになってもうて(いや別に悪いこととかでは全然ないけど)、それゆえ、俺のおらんとこでバリバリの関西弁が話されてる現場っちゅうのがやや珍しめになってまうわけやな。

サンプル1で「こういうもん」現象

 そうなってくると、関西弁と俺のイメージの結びつきはますます強まっていくわけやねんけど、さっきも言うたように、俺はあらぐさというサークルの文脈を生活の軸にしてる部分が大きいし在籍歴もぼちぼち長いから、俺に関西弁のイメージが過剰に付与されるという傾向はそない見受けられへんねんけど、逆に、「コテコテの関西弁話者」という概念に対するみんなのイメージが俺およびその他わずかに存在する「ぼちぼちコテコテ」な団員によって決定づけられてしまうということが多少起こってるように感じるねんな。というか全体的に、しゃあないことやとは思うんやけど、関西にもいろんな人がおるっていうことに対する想像力があんまし働いてないことが多い気がするんよな。まあでもこれは俺も関西おったときに「東京人は〜」みたいな言及の仕方しがちやったから、別にみんなそうというか、未知のもの、異質なものについて一括りで考えてしまいがちな傾向っちゅうのは誰しも持ってるんやとは思うけど。でも実際のところは当たり前やけどコテコテの関西弁話者にもいろんな人がおる。社交的な人、内向的な人、おもろいやつ、おもんないやつ(「おもんないやつ」なんていうのは存在しないという立場を近年の俺は取りがちやけど、一応ここでは世間に流布している考え方に基づく)、年寄り、子ども、声でかいやつ、声ちっちゃいやつ、ほんまにあらゆるタイプの人間がおるんよね。

演技で目指すもの

 にもかかわらず、やはり俺がコテコテの関西弁で喋るというだけで「駒井っぽい」みたいな感覚を与えてしまいかねないのが非常に厄介なんよね。俺は標準語を自分の言葉として喋るのがあまりにも苦手やから、演技とかも基本的には関西弁(一応mother tongueには限らないつもりであるという意思はある)でやりたなってまうんやけど、まあ「何やっても駒井」と言われる可能性を引き上げてるよな。まあ実際、己の実力不足でナチュラルに「何やっても駒井」になってまいがちではあるんやけど、一応いろいろな関西弁話者を演じ分けてるつもりやねんで。まあでもやっぱり伝わらんかったら意味ないわけで、今後なんか演技する機会、特に関西弁で喋らしてもらえるタイミングがあったら、より一層ちゃんとその役としての人間を感じてもらえるようにしたいなっちゅうのは非常に思ってることやね。

サンプル1のインド人

 さて、若干話が逸れてもうたんやけど、「異質」なものの認識みたいなくだりに戻ると、実はあらぐさにはインドからの留学生が一人おって、俺の同期やねんけど、そいつに対するみんなの認識の仕方っちゅうのも非常に興味深いものがあるんよな。やっぱり彼は日本への留学生で、片言ながら日本語で意思疎通するし(しかも4年目やからかなりうまなってきてるし)、俺の場合と違って「彼を以ってインド人に対するイメージが多少なりとも定着する」っていう感じではないわけやな。インド人の中でもかなり境遇として特殊なケースやろし、かつインドの広大な土地やめちゃくちゃ多い人口とかの知識からそんな一括りにはならんやろという想像力も働くしな。でも一方で、もう4年目にもかかわらず、「インド人である」という部分が未だにクローズアップされがちやなとも思うわけやな。これは、彼がインド人であるということを“サークル全体の態度として”特徴づけたのが割と遅かったからっちゅうのがデカいと思うんやけど、インドだけに、ナンにせえ「インド人である」ことは彼の特徴のうちの1つに過ぎないにもかかわらず、その特徴が過剰にクローズアップされすぎとるきらいがある。この「インドだけに」っていうのももう遊んでもうてる証左やしな。もっと彼を「インド人」というラベルから解放して、彼自身とのコミュニケーションを楽しむ方が健全なんちゃうかと思うわけやね。そして喜ばしいことに、昨今はその傾向も増してきてるように思うんやけどな。

男子校病の拡張

 まあほんでここまで喋ったらもう気付いてる人も多いやろけど、この認識の問題って完全に「女性をいっぺん『女性』というフィルターを通して見てまう」男子校病の有様と一緒なんよな(03https://note.com/hoh0jii3/n/nf576ddda04ff、04https://note.com/hoh0jii3/n/n10a2d79b30b0を参照してください)。あれも、その人の属性とかそういうのんっていうのは女性であること以外にもようけあるはずやのに、女性であるという1つの属性を過剰に意識してもうてるっちゅうことなわけやから。そう考えると、まああの回においても男子校病に罹患するのは必ずしも男子校出身者には限らんぞみたいなことは声高に言うてたけども、改めて全員の問題として拡張されるよな。すなわち、数ある特徴のうち非常に目立つものだけを過剰にクローズアップしがちであるというのは人間の性みたいなことやっちゅうことや。これほんまにね、全員が胸に手ぇ当てる案件や思うんでね、みなさん是非胸に手ぇ当てて考えてみぃ。俺も常々胸に手ぇ当てて生活していきたいと思いますわ。っちゅうことで今回はこの辺で。ではでは出羽山脈〜〜


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