私はフェミニストを名乗ることをやめた

私はフェミニストであるが、いつからかフェミニストを名乗ることをやめた。自分の中のフェミニズムは現在も持ち続けているが、自らのプロフィールに「フェミニスト」という属性を付与していない。
ここでは私がなぜフェミニズムを意識するようになり、どんなフェミニズムを持っており、そしてフェミニストを名乗ることをやめたのかを綴っていく。

追記(2022年5月3日)
はじめに述べておくが、私は自分以外のフェミニストが嫌いなわけでも、いわゆるアンチフェミニストでもない。
各々がフェミニズムに出会うに至った経緯には、女性であるが故に被った不利益や性暴力が存在すると想像される。そして、それらは決してないがしろにされるべきではない。

長くなりそうなので目次を付けます。

フェミニズムへの目覚め

ずっと女性が少数派の世界で生きてきた

高校では理数科、大学では工学部、IT企業のシステムエンジニア
と、自らの希望で女性が圧倒的マイノリティな環境に長年身を置いてきた。(現在は休職中のため距離を置いています)
学生の頃、自分の属する集団の中で女性であることを理由にないがしろにされたことは思い返す限り見当たらない。プライベートでは色々あったが、学業における能力の低い私は、むしろ女性であるというだけでかなり優遇されてきた自覚さえある。
社会人になってからは学生の頃ほど露骨に優遇されているとは感じないが、それでも女性であるということにかなり配慮を受けているように感じた。
ある日、その配慮に対して違和感を持つ事件(以下、深夜作業事件と称す)が起きた。

深夜作業事件

入社1年目、とあるシステムを同期の男性と二人で半分ずつ担当していた。深夜にそのシステムが突然停止したことがあった。どうも私が担当している部分で停止したらしい。直接消費者に影響が出る可能性があったため、通常であれば時間帯など関係なく当然呼び出されることになる。しかし、私は自分の担当するシステムが停止したにもかかわらず、呼び出されなかった。なぜなら、「深夜に若い女性を外出させるわけにはいかない」からだ。その日は同期の男性が一人で深夜出社したが、私がいないためプログラムの改修はできずじまい。停止した分の作業が多少(3,000件中100件くらい)は彼の手入力で消化されたかなという戦果であった。
翌日出社した私は驚くべき光景を目の当たりにした。深夜に出社し対応した彼が上司や先輩から称賛されていたのだ。私が出社していたらプログラムを改修して2,000件以上は処理できていたと思う。事実、その後に1時間くらいで改修作業を済ませることができたのだ。
大した解決に至らなかったのに称賛されている彼を見て悔しかった。それと同時に、こうやって評価される機会が失われるのだなと悟った。女性であることに配慮された結果、私は活躍の場を狭められていくのだなという現実が寂しかった。
どうせ電車のない時間帯だ。女性が深夜にタクシー1本で移動することがそんなに危険だったろうか。危険だったかもしれないが、それなら彼の家から会社へのルート上、私も同乗することができたはずだった。
もちろん彼は悪くないし、上司も良かれと思って私を深夜に出社させなかった。その判断自体が間違っていたとは微塵も思わないが、それでも私は悔しく寂しい思いをした。

深夜作業事件をきっかけに、私は女性が男性と同じように働ける社会を望むようになった。そして、この思いがフェミニズムという概念を意識するきっかけとなった。

私の中のフェミニズム

現在の私のフェミニズムは田嶋陽子氏の著書に多大な影響を受けている。それは、フェミニズムという概念をがどういったものなのかを自分なりに彼女の著書から学ぼうとしたからだ。というのも、当時の私が「フェミニズム」という言葉を聞いて思い浮かぶ人物は田嶋陽子氏しかいなかったのだ。思い浮かぶと言っても、そこまで言って委員会で見かける人物だなあくらいの認識であったため、まずは彼女の著書「愛という名の支配」を購入した。
この書に関する感想や意見は、もう一度きちんと読み直して別の機会にまとめたい。非常にざっくりとした感想を述べるとすれば「彼女の考えに感銘を受けた」。もちろん、流石にそれはないだろ…と思う部分もあったが、20年余り女性として生きてきた自分にとって概ね肯定できる内容がそこには書かれていた。中でも大きく感銘を受けた2つの考えを以下に示す。

① 女性が女性であることから解放されることは男性が男性であることから解放されることに繋がる

この書には、女性が女性であることから解放されることは男性が男性であることから解放されることに繋がる、という旨が書かれていた。それまで、フェミニズムとは女性の立場・権利向上のためのもの、という女性への視点しかなかった私に非常に大きな驚きを与えた。
女性の立場・権利を考えれば考えるほど、男性が背負っている重荷も見えてくる。本当の意味で男女が平等で対等な世界を目指す。この考えは現在も私のフェミニズムの根幹となっている。

② 人には人のフェミニズム

この書の最後には、人の数だけフェミニズムがあると書かれている。人には人のフェミニズムがあるのだから、自分のフェミニズムを押し付けてはいけない。お互いのフェミニズムを尊重しあう。
確かに、田嶋陽子氏はテレビ番組で過激な発言をしたり相手に噛みついたりしているが、あくまで議論をしているのであって決してそれを相手に押し付けたりはしていないように思う。この姿勢はフェミニズムに限らず、様々なものの考え方において至極当たり前でありながら最も重要なことだと感じた。
人には人の乳酸菌。人には人のフェミニズム。

こうして私は自分のフェミニズムを持ち、自身をフェミニストであると名乗るようになった。

フェミニストを名乗ることをやめた

しかし、いつの間にか私は人前でフェミニストを名乗ることをやめた。ネット上でフェミニストを自称する者の多くが男性差別者であり、女性差別者でもあることを悟ったのだ。私は自分のフェミニズムを守るため、フェミニスト=男性・女性差別者と混同されることを避けようと自ら船を降りたのだ。

また、昨今は創作物の表現の自由や表現規制、広告規制に関する議論の中で疑問に思うような論調を目にする機会が増えた。この話題については具体的な事例を挙げながら更新していく。

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