掌編小説 彼は私よりも
彼は私よりも
仕事に疲れ、遅く帰ってきた私に対して、一緒に住んでいる彼は、
「おかえり」
と、そのあとにもうひとこと添える。
「ちょうど、お茶を淹れるところだった」
彼は、パタンと小さく音を立て、ハンディなサイズの料理本を閉じた。
椅子から伸ばしていた足を揃えて立ち上がり、すらりと伸びた背中を見せる。
私は、
「うん」
とだけ、唸るように答えるのが精いっぱいで、そのままソファにどすっと腰を下ろした。
🚿
お急須にお湯を注ぎ、お茶を淹れてくれている。
私は、そんな彼の背中を無言で眺めていた。
ポットから垂れるお湯が、茶葉に当たってぱつぱつと音を立てている。
湯気の白がお急須からふわっとあがり、たちまち、そらで消えた。
普段は、縦に長くてほっそいうえに、骨ばった固い背中。
なのに、こうしたひとときの彼の背中には、ふしぎな温かみがある。
彼、優利は、いつもこんな調子だった。
穏やかで、落ちついていて、思いやりもあって、冬は妙に白いセーターが似合う。
——たまに、眩しいな。
日々慌ただしいだけの私よりも、彼はずっと大人だった。
なんでこいつ、私と付き合ってくれるんだろうな。
つい、ソファに寝転がる。
疲れた体にふと沸く思いが、ぐるぐると渦巻いていた。
🚿
料理人でもある優利の振る舞いには、いつも余裕がある。
そんな雰囲気ばかり漂わせるものだから、女性にはモテるし、ムッとしてしまうこともたまにある。
柔和な笑みと、自活力の高さと、穏やかで消極的なのに頼れる姿勢と、そんな優利の気質が積み重なって、働き出してから日々に余裕がない私には、彼の振る舞いが見えない壁のように感じてしまうこともあった。
私と彼が対等かどうかなんて、そんなバカバカしいことも考えてしまう。
中学のころから知っていて、今はもう一緒に住んでいるはずなのに、私よりもずっと先の場所にいるような、そんな気持ちすら抱くこともあった。
内心で氷がすべるように、ひやりとした感触が腑に落ちる。
目の前にふたつの湯呑が並んだ。
「好きな方を取って」
「……さんきゅ」
指にそっと触れる熱が、この身から疲れを剥がしていく。
それは当然、あたたかった。
🚿
シャワーの蛇口をひねって、キュッと鳴る音が好き。
髪を手で軽く絞るように握り、手を伸ばしてバスタオルを取り身体を拭う。髪もアップにしてしまう。
肌が乾くのはイヤだから、バスタオルを巻いただけの状態で顔にあれこれ塗りたくり、保湿と、乳液と、終わったら髪の方に手を伸ばし、ヘアミルクに、それからドライヤーを——ここで手が止まった。
髪を乾かすの、死ぬほど面倒くさいな。
でも、自然乾燥はNG。
広めのコームで梳かして風を当てる。
しだいに気分も落ち着き、部屋着を着てから、香る湯気の漂う洗面所でゆっくり深呼吸をした。
ようやく、仕事に貼り付つられた疲れがぜんぶ剥がれ落ちた気がする。
🚿
洗面所を出てリビングに入れば、案の定、
「おつかれ。温めといたから」
優利はその間、テーブルについて本を読みながら、私を待ってくれていた。
「うん——」
声になるか、ならないか程度の、小さな頷きしか出ない。
彼はテーブルの向かい側にいて、さっきとは違うレシピ本を静かに読んでいた。
口にした湯飲みをテーブルに置けば、コトンと小さく音が鳴る。
家事は分担だからって、こうもさらりと何もかもなこなされると、なんだかハラが立つな。
——いや、今のはナシ。
でも……うん。
「いただきます」
「はいな」
なんだよ、「はいな」って。
クソ、この肉じゃが美味いな。
「美味いよねー」
あーもう、言っていないのに、伝わっているし。
🚿
メープルのダイニングテーブルを挟んでふたり、遅めの食卓を囲む。
優利は、帰りが予定より遅くなった私の食事に付き合い、向かいに座っていた。
手もとの本を開いたり、閉じたりしながら。
こちらは箸で淡々と、煮びたしの茄子やジャガイモを口に運んでいるつもりだった。
でも、会話を重ねるたびに私の愚痴が多くなる。
優利はそれを素直に聞いてくれるし、風通しの良い返事をくれるし、たまに遠慮なく吹き出して笑っていた。
——もう、話していて気持ちいいわ。
職場の愚痴を兼ねた笑い話をひとくさり笑い、目じりについた笑い涙を小指の腹で払って、言った。
「忙しい時期なんだな」
「言うほど、たいしたことないんだけどねェ」
言葉と裏腹に、自分の中でじわっと黒いもやのようなものが浮かぶ。
目を逸らして彼を見ようとしたら、立ち上がっていて、私に背中を見せていた。
また、ポットのそばに立っている。
「カナ。明日の帰りは——」
「明日も、私より優利の方が早いかな」
「そうか」
「……」
優利は、きっと仕事もさばけるし、お店でも社交的で穏やかなんだろう。
自分事をこなした上で、ここ最近帰りの遅い私を静かに待ってくれている。
あいつの背中は、頼れるひとのそれだった。
ふと、口さがない誰かに言われたことを思い出す。
なら、デキる彼の背中に甘えればいいんじゃないの。
……そうかもね。
わかる。でもね。
「でもそれは、私の趣味じゃあないのよね」
——困ったことに。
「よし。食べて寝る」
「その前に、お茶飲んでけ」
「あ、はい」
たとえ私が、何かあって歩みを止めたとしても、彼は待ってくれるだろう。
もしかしたら、手を差し伸べてくれるのかもしれない。
でも。
そんな手をひかれるだけの間柄なんて、私はゴメンだ。
ついていかなきゃ。
私、こいつに置いていかれたくない。
了
ふいにあとがき
ななくさつゆりです。
いかがでしたか。
誰も彼もが世の慌ただしさを感じる昨今。
そんな中でふいに見た相手の余裕ある振る舞いとか、そのために内心で考えてしまったこととか、それらを心の中でうまく落とし込めていないなと感じたことって、ありますか。
私はよくあります。
周りで働いている皆、社会でしっかりパフォーマンスを発揮していて、すごいなと。
彼女も、ふたりの仲の良い悪いとはまったく別のところで、コミュニケーションの「あや」に逡巡を覚えることがあったのかもしれませんね。
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