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エッセイ 透きとおる泡。炭酸が鳴る。


エッセイ 透きとおる泡。炭酸が鳴る。



 ひざしが夕の色みを帯びはじめる。
 肩や背中がじんわり汗ばむ薄暮れの頃。
 私は、ペットボトルのおなかをにぎり、ひんやりとした感触を楽しんでいた。

 三ツ矢サイダー。

 ボトルも液体も色は透明で、中空に向かって掲げれば、ボトルごしに薄白い夕の空が望める。
 西空のグラデーションにあててやると、サイダーに空の彩りが宿った。

 福岡市内の中心地、天神のそばにある大名ガーデンシティのベンチで、昼日中の余波のようなぬるい夕の風を浴びながら、セブンで買ったばかりのそれを眺めている。
 そばに屹立するリッツカールトン福岡は、持ち前の豪壮さをもって空に高々と突き上がり、それがかえって夕の空に奥行きを感じさせた。

🍹

 透明なボトルに、白と緑のラベル。
 トレードマークの赤い三ツ矢。
 今でこそ透明な三ツ矢サイダーも、昔はレモネードのような薄い黄色だったらしい。
「申し訳ないけど」
 ラベルは剥いだ。
 ラベルの端を爪でカリカリと立て、爪ではさんできっちり剥ぎ、透明なボトルとジュースをそらにむきだしにする。
 夕の日をあびる泡を見ていたかった。

🍹

 目線と同じくらいの高さのところで、サイダーをまじまじと見つめる。
 透明なジュースの中でいくつもの泡がぷつぷつと浮き上がっていた。
 そのぷつぷつと浮く泡は、そのままぷっつりと消える。
 泡はボトルの内側に細かくはりついていた。
 そして生き物のように、くっついたり離れたりを繰り返す。
 サイダーを耳にあてた。
 それなりに賑わうパークの隅のベンチ。
 ひとり、夕方と夜のはざまで。
 透明なボトルごしに消える泡の音を感じる。

 ふいに、白い半袖シャツを着た子供がそばを走り抜けていった。
 ゴム草履の濃灰色を人工芝の上で元気に踊らせている。つられて視線を宙にやると、夕焼けが西方の低い雲間からこちらを覗き込んできた。
 つい、ちらついた白い光に目を細める。
 その子供の手にもサイダーが握られていた。
「いいねぇ」
 なんて無意識に独りごちて、「そういえば」と、思い出す。

🍹

 ウチの実家は、炭酸を置かない家庭だった。
 基本は、お茶と牛乳。
 小中高と運動の習い事や部活をしていたので、スポーツドリンクはそれなり。
 他は、低頻度で現れるリンゴやオレンジのジュースがせいぜいで、炭酸飲料が冷蔵庫に備えられることは稀だったと思う。

 だから、私がこうしてサイダーを手に取るようになったのは、割と最近になってから。
 そのせいか、当時の私にとって炭酸飲料というものは、ややスペシャルな飲み物という位置にいた。
 日ごろ口にするものではなく、夏のお祭りや誰かの誕生日に、焼きそばやケーキと一緒に出てくる飲み物……というイメージを特に根拠もなく抱いていた。

 たとえば、メロンソーダは創作の中にしか出てこない飲み物で、バニラアイスが乗ったフロートはレストランのメニューにだけ存在する豪華な何かで、最初から注文する対象にはなりえなかった。
 ジュースに炭酸が絡むだけで、飲み物のカテゴリが勝手に切り替わる。
 子供の頃の私にとって、サイダーをはじめとした“炭酸飲料”は、非日常の象徴だった。
 ひるがえり、大人になってしまった今、まるで反動のように炭酸飲料を手に取っては眺めたり飲んだりをして楽しんでいる。

🍹

 湿った指で、ペットボトルのキャップをつまんだ。
 ギュッと握ってキャップをまわせば、
 プシュッ――!
 と、鳴る。
 この瞬間だけは、他の飲み物では味わえない。
 そのままサイダーを口にして、喉が潤う感触を楽しんだ。
「甘」
 そう、甘い。
 とくに一口目は甘い。

 飲み慣れなかった子供時代は、炭酸の泡を「痛い」と感じていた。
 それも大人になった今では、ほどよい刺激と喉越しをくれる。
 舌が炭酸の処理に追われて拾い切れなかった甘味や酸味も十分に感じられて心地よかった。 
 もう一度口にして泡を喉で感じ、舐めて甘みを覚え、記憶がフッと沸く。

 小学生時代の、それも低学年の頃のこと。
 町内会の小さな夏祭りに浴衣を着て繰り出した私は、ゆるい大人が生み出した余興でしかない「炭酸ジュースをストローで一気飲みバトル」に意気揚々と参加した。
 周囲の夏祭りムードにあてられて昂じていた私は、自分が炭酸にまったく慣れていないという事実をすっかり忘れている。
 近所の上級生たちに混ざって鼻息あらく参戦するも、案の定バトルには負けるわ炭酸は痛いわで、さんざん泣いて近所のおじさんを困らせていたのだった。

 思えば、あの炭酸ジュースを手にした子供達の戦場は、公園の広場に簡易ステージとテントを建てただけの場所でしかない。
 目の前で夕の青白い空を突くように建つリッツカールトンとは比べるべくもないはずだが、それでも、目の前の景色よりつよくしなやかに、あの頃の記憶がよみがえっている。

🍹

 サイダーを飲み干し、空になったボトルを親指と人差し指でヘコませて鞄にしまった。鞄を手に立ち上がる。
 半袖シャツの子はいつの間にかいなくなっていた。

 炭酸を飲み慣れないでいた当時。
 炭酸飲料を非日常の象徴のように思い込んでいたあの頃。

 あの頃があったからこそ、好きでいられる今があるのかは、わからない。
 ただ、当時の私にとって炭酸飲料はロマンそのものだった。
 そのロマンも、今では鞄にしまって持ち歩ける程度には、ありふれた物として手元に置いておける。

 日がな照らされっぱなしだったガーデンシティは、蒸された熱気を残したままオレンジに染まっている。
 やがて紫がかり、濃い青が音もなく降りかかるのだろう。

 視界を真上に向ければ、まだ空のてっぺんは吸い込まれそうなほど青かった。
 どうやら今日の福岡の街は、昼の熱気を残したまま、夕方をぬるりとすり抜けて夜に行くつもりらしい。

🍹

 余談ながら。
 結局、その“炭酸飲料のロマン”も、成人してビールの味を知って以降、雲散霧消することになる。
 ビールの味に体が馴染んだことで、炭酸飲料はビールにひも付き日常へと繰り入れられた。
 まさに泡沫の思い出。



しゅわっとするあとがき


こんにちは。
ななくさつゆりです。
いまさらですが、エッセイはなんかこう、いいですね

以前書いたエッセイ 『原稿スイッチ』の時のように、毎回覚醒するワケではないのですが、情景が浮かべばスグというか。

今回の炭酸のお話のような情景エッセイは、私の記憶や見聞きした出来事にひもづくことがほとんどです。
なので、ゴールがはっきりしていて楽しい。
書くうちに肩の力も抜け、ほぐれていくような感じがします。
好きな原稿です。

ところで、炭酸のお話、いかがでしたか。
エッセイということで、だいたい私の体験に基づくトークなのですが、とりわけ炭酸ジュース一気飲みバトルはまんま私の実体験です。

ぎゃん泣きしたかまでは……どうだったかな。
泣いたは泣いたと思うのですが、ちゃんと飲み干しました。
無料で飲めるからって、ムリして飲んで泣いたのは懐かしい記憶です。

今回もお読みいただき本当にありがとうございます。


ななくさつゆり



コーヒーチケットをひとつ。は日々に飲み物を添えた情景のショートエッセイです。

砂糖を溶かす間にさらりと読めるような、そんなお話を書いていきます。

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